千夜千冊1782夜、ハインリッヒ・ロムバッハさんの「世界と反世界」を読んで思い浮かんだことを書いています。
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買う金も無いし部屋も狭いので、今ある物を使ってやっと本棚を拵えた。手持ちのオモチャを飾ると小さなミュージアムの完成だ。
今月は予定が沢山あったので、ちょうど忙しいときに千夜千冊がベーコンだったのは、先生がワザとそのようにしたのだと思っていた。いづれにしてもベーコンで俳句をつくるのは、おもしろそうだけど相当に難しそうだ。それに今月の僕は満月のように色々フルにしすぎたように思う。
ヘルメスのことは何にも知らなかったと言っていい。オカルト関連であることだけ、ヘルメス・トリスメギストスという名前だけなんとなく聞いたことがある気がする。
今夜のお話は神学者であって現象学者でもあった、著者のハインリッヒ・ロムバッハ氏が、神話と美術の暗示(ヴィジュアル・アナロジー)によって対角線を引き「ヘルメティシズム」を縦横無尽に解釈した一冊だ。
今夜のお話では、本編(著者独自のヘルメス解釈)の前に、従来の「解釈学」とはどのようなものであるかが説かれている。先生にとって「解釈学」といえば、かつて渋谷恭子さんにもオススメした、神学者フリードリヒ・シュライアマハーのことらしい。
シュライアマハーは当時流行っていたドイツ観念論に流されることなく近代聖書解釈学を確立し、「人間が人間に贈りうるもののうちで、人間が心情の奥底で自分自身に語ったものにまさる心おきない贈り物はない」という自由主義神学やロマン主義的な美学を貫いたのだという。ここを読んで、ぼくは自分のひとりごとを思い出した。書いたときは心にぽっかりと冷えた穴が空いていただけだったのに、今は言葉が鍵と鍵穴の関係になったかのようだ。
言い換えると「解釈学」とは、元のテキストと解釈者のテキストが「地」と「図」の関係にあって「もと」と「あと」のどちらが優位ということではなく、原著者と解釈者は地図一体になる(地平融合する)見方の学問なのだ。
一方今夜の素材にもあたるヘルメス知の歴史は、世界と反世界を一緒くたに解釈してきた(つまり著者は「世界と反世界を一緒くたに解釈してきたヘルメス知」をさらに解釈しようと試みたのだ)。
ヘルメス学はヘレニズム期に仮想著述者ヘルメス・トリスメギストスがまとめたというヘルメス文書群(Hermetica)にもとづいて、その解釈に向かっていったものである。
錬金術・秘教・カバラ・魔術・暗合術・観相術などの神秘主義的な知の系譜を追いかけたヘルメス学は、その思想をさまざまなシンボルや寓意やテキストや絵画や音楽にあてはめてきた。
これは正統派の神学からすると、とんでもない異端思想か邪教に映った。キリスト教の「世界」からすると「反世界」だった。結果「聖書にもとづいた解釈学」と「典拠不明な文書にもとづいたヘルメス学」という二つの系譜が、一方は開示され、他方は覆蔵されてきたわけだ。世界と反世界がヘルメスをまたいで対比されていったのである。
これはコロナをまたいで「コロナ(Covid-19)というウィルスが存在し感染するというNWOの世界」と「(Covid-19)というのは基本的に電磁波だという反NWOの世界観」が対比されている現在の構造とよく似ている。「マスメディアにもとづいた解釈」と「ネット情報にもとづいたヘルメス学(?)」というわけだ。
先生は現象学者のロムバッハ氏がヘルメス知の本を書くとは思っていなかったようだ。しかし氏は、ヘルメス知によってこそ「構造の深層」が存在論になりうると考え、「理解できないものに対する理解としての世界理論」にこそ、関心を寄せつづけていたのだという。
本書には「序に代えて」として印象的なシャガールの絵が掲げてあり、本文でもいくつもの絵や図版や写真が登場する。でもぼくには今夜のところ、これらの絵の中にどのようにヘルメス知が動いているのかあまりよく分からなかった。
ただ著者の言う「世界は多様にできている」ということと、「最低」なものと「最高」なものは分け隔てなく承認されるべきだということには共感する。一つだけの絶対普遍の世界観を強要することや、「最低」なものと「最高」なものを自分たちの都合によって無いことにしてしまう方が問題だと思うからだ。そのように考えると、なるほどそういう世界への向き合い方にヘルメスらしさは出て来るような気がしなくもない。
セイゴオ先生はそんなわかりにくいヘルメスを「チャーミングなのだ」という。
古代ギリシア神話では、ヘルメス(Hermes)とは神々の使者の代名詞だった。ローマ神話ではメルクリウス(英語読みではマーキュリー)と名前を変えるこの神は、今風に言えばディレクターにあたる。
ロムバッハ氏は、古代社会の道標や境界石をあらわしたヘルマ(堆積石・積み石)が、ヘルメスの由来ではないか推理する。またヘルメスは古くから人間に好意的な「魂の同伴者」とみなされてきた。
一方でヘルメスは子供の頃、兄アポロンの乳牛を盗み隠したため、詐欺と窃盗と奸智の神とも言われている。しかしぼくは子供の頃や若いうちに、事件や事故などの過ちを起こしたり失敗して叱られ、やりなおしたり和解する経験ができるというのは、長い目で見るとむしろ幸運なことのように思うのだ。
ヘルメスはたいてい「二匹の蛇がからまった杖」をもち、「翼のはえたサンダル」をはいた姿で描かれることが多い。このケリュケイオンの杖(伝令の杖)が、ぼくらの間では悪名高いWHOのマークなものだから、ヘルメスや蛇という生き物自体も悪の象徴として扱われること多いのかもしれない。そしてバチカンも好んで蛇をサタニズムの印として使っている。
他にも今夜の千夜では、ヘルメスが気が利いた神であったこと、「好き者」であったことなどがあげられている。またヘルメスはデュオニソスと同じく生殖器が目立つオブジェや彫像がたくさん作られていて、豊産や牧畜文化を象徴する(この部分、先生がおちんちんと連呼するのには笑ってしまった)。両神とも中央支配から逸れているというのが良いなと思う。
とにかくヘルメスは情報のコミュニケーションに長けているのだ。英雄でもセンターでも無いけれど「あいつがいないと始まらない」という人らしい。先生はかれらをメディエーターなのだとみなす。他にも色々特徴が上げられていて、ぼくに似てるなと思うところもあり、こそばゆい気分になるが、あんまり調子に乗って妄想していると、またおっちょこちょいをやらかしそうだ。
そんなヘルメスの名がついた「ヘルメス知」は、「類いまれな知的編述グループ」によって世界や反世界の「半分以下」の部分を編集していった。その様子を先生は、ぼくらがノートやブログをまとめ、それらを次々にリンクさせていく様子に例えている。
構造存在論(Strukturontologie)や形象哲学(Bildphilosophie)に関心をもっていたロムバッハ氏は、実はそんな半分以下のヘルメス知の動向にこそ、世界と反世界の「あいだ」があるのではないかと見たのだ。
例えばネット民のあいだでは、素直で騙されやすい(マスコミに洗脳されやすい)人々を「シープル」という(ぼくはそんな風に呼びたくはないのだが)。ただなんとなくこれは聖書の「迷える羊」に由来しているのだろうとは思っていたが、ヘルメス的原理によると、聖書が積極的に新たな羊(犠牲)の群れが得られることを示唆しているとは知らなかった。そう思うと薄ら寒い。
また、たしかに天使のイメージはヘルメスとよく似ている。それは互いに境界をこえる宙ぶらりんな存在であることを暗示しているそうだ。天使がメディエーターであることは知っている。というのもぼくは自分の守護霊さんたちを「天使さん」という愛称で呼んでいるからだ。けれどもスピリチュアル系陰謀論では、サタン=ルシファーが堕天使であるからなのかよく分からないが、天使自体を悪魔的なものと見ている人もいるらしい。ぼくは単に人間と同じように霊にも色々いて、「最低」の霊に遭うこともあれば、「最高」の霊に遇うこともあるのだろうと思う。
「ファウストがメフィストテレスに売り渡してしまったものの中にも、ヘルメス知が入っていた」とはどういうことだろう。ぼくは千夜千冊エディション『資本主義問題』を読んでようやく、しばしば陰謀論で「お金は悪魔が作った」と言われることの意味が、はっきりと分かったところである。ファウストが悪魔に売り渡してしまったヘルメス知とは、「見方」なのかもしれない。
ゲーテはすごい人だと思うのだが、ぼくにはちょっと言いたいことがあるのだ。現実の世界にはグレートヒェンみたいに、うっかり母と我が子を殺しておきながら死後天使になって、自分を不幸にした男を救いに来るような都合のいい女性はいない。世の男どもが捨てたグレートヒェンたちは、母親と喧嘩しながらでも、男のことなんか忘れて逞しく子供を育てるしかない状況に陥っているのが真実である。だからファウスト博士は間違いなく地獄に落ちるよとぼくは思う。
覆蔵とは覆われてしまったものをいう。その覆蔵の中に「内なる神」がいる。それこそがヘルメスなのだ。ヘルメスを発見するには『星の王子さま』のように隠された世界のヴェールを剥がすか、チャップリンの映画の主人公のように、剥がすたびに失敗がおこり、周囲が大混乱することに飛びこむしかないと本書は述べている。
先生は星の王子さまのお話にあってように、何に「なつく」かということと、何が「できる」かということは裏腹なのだという。ぼくは人になつきやすいタイプなのかもしれないという気もする。「その人、あるいはその人たちのためになにができるか」を考えているとき、ぼくはその人たちになついているのだろう。
ヴェールを剥がしていくと、ワクチンにしろデジタル革命やIOTにしろ、やって来るものを「突き返す」ことがいよいよ大事になって来る。ぼくは『千と千尋の神隠し』の千尋と、金を出す「顔無し」のやりとりを思い浮かべる。
セイゴオ先生は、タリバンが覇権をとったかに見えるアフガニスタンの動向に注目するようにと仰る。「世界か反世界か」なのだろうか。ぼくはトヨタの社長さんに、何故タリバンがトヨタの車に乗っているのか、是非とも聞いてみたいところである。きっとタリバンも一様ではない。支配階級やNWOとのつながり、中央と末端組織の違いがあり、中村哲医師が接してきたタリバンと、今メディアを賑わすタリバンは別物なのだろう。
ぼくたちはアフガニスタンで地域循環型コミュニティを確立した中村哲さんが、何故コロナ禍が本格化する直前に殺されたのかについて知るべきだ。
資本主義を勉強するために『エンデの遺言』を読んで一番驚いたのは、共産主義の概念についてだった。ぼくはずっと資本主義と共産主義とは対立関係にある真逆のものと思っていた。しかしエンデはこのように述べている。
「マルクスの最大の誤りは資本主義を変えようとしなかったことです。マルクスがしようとしたのは資本主義を国家に委託することでした。つまり私たちが双子のようにもっていたのは民間資本主義と国家資本主義であり、どちらも資本主義であって、それ以外のシステムではなかったのです。社会主義が崩壊した原因はここにあるのでしょう。」
「資本主義vs共産主義」という図は、同じシステムを二項対立に見せかけているだけだ。
「資本主義」=「民間資本主義と国家資本主義(社会・共産主義)」なのだ。
近頃のぼくは、コロナ詐欺は「資本主義」に、本当の意味で抗いうる「自由経済」の基盤となる地域循環型のコミュニティ=共(コモン)を、非接触や対立によって潰すために仕掛けられたのだと思っている。
連れ添いは月とヘルメス長き夜
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