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偶然とカオス

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada




 千夜千冊1838夜、ダヴィッド・ルエールさんの『偶然とカオス』を読んで思い浮かんだことを書いています。



 ここ2、3週間、耳鳴りと頭痛が酷いのでありとあらゆることを試してみたものの、なかなかおさまらない。Tさんにアドバイスを賜り、気持ち的には楽になったが、日本は健康よりも企業の利益優先で、有効な規制が全く無いために、電磁波によって血流や神経に異常をきたし苦しんでいる人は、ぼく以外にも相当な数にのぼるようである。


 今夜の本は科学者たちが偶然とカオスをどのように扱ってきたのかがテーマだ。ぼくは科学というのは、偶然なんて相手にしなさそうだと思っていたが、それはヨーロッパ哲学のほうで、科学者たちが確率などを求めたがるのは、どうやら偶然という現象の秘密を科学的に解き明かし、飼いならす力を手に入れたいという目的によるもののようだ。


 西洋の科学者たちが、偶然に見える現象や事象には、もともと「でたらめ」(無秩序性)や「たまたま」(偶発性)というものが入っていたとみなしたというのは、なかなかおもしろく、イメージしやすかったが、ぼくは偶然と戯れたいとは思うものの、偶然を猫ほど飼いならしたいとは思ったことはない。

 最近近所に可愛い野良猫の親子がうろちょろしていて、ついつい見かけるとデレデレしてしまう。寒い日などは、どうしているかなと心配になるし、鳴き声などすると可哀そうだと思うこともあるが、子猫を親から引き離すほうが理不尽な気もして、そっとしておくことが一番かなという結論に至った。


 今夜のお話でぼくは、エントロピーとは「でたらめ」の淵源の動向(無秩序さ具合)であり、宇宙や自然はこのエントロピーというめちゃくちゃさによって出来上がっているが、何かの事情でこのエントロピーの値は変化するという説明によって、かなりエントロピーのことが身近に感じられるようになったように思う。なるほどなるほど。熱力学第二法則とは「すべての物理現象においてエントロピー(めちゃくちゃ具合)は一定、または増える。増えたら元には戻らない」ということなのか。覆水盆に返らず的な?


 色々端折って結論を抜き出すと、つまり「偶然はカオスが律していた」ということであるらしい。なぜそんなことが分かったのかについては、千夜本編を読んでいただくとして、ぼくとしては「幾何学化をする」意味や、有名なアトラクターというものが一体何なのかが多少なりとも理解できたので、るんるん気分である。

 ルエールは、乱流は、モード(周期運動)の励起がたくさんあることによって発生するのではなく、ストレンジ・アトラクターという、奇妙な動きをして周囲を引き付ける領域にかかわっていると考えたようだ。


 ぼくは今夜のお話を読んでふと、カオスをパターン化して意図的に作ったとしても、人間が意図的に作ったらそれはカオスと呼べるのだろうかと思った。気象操作に遺伝子操作に世論操作に心理操作。ぼくはもう操作にはうんざりだ。カオスを真似して偶然までもコントロールしたがるというのは、人間が手を加えずに自然を敬い、その力を信頼して任せるということができなくなったことのあらわれではないかと思う。水木しげるさんも、電気がついたら妖怪たちが消えてしまったと言っていた。


 日本語では、何かの混乱が起こっていて、他に名付けようのない状態のことを「渦中」という。渦中とはきっとカオスのことだ。では場の編集における「初期条件」とは何だろうか。集まったメンバーか。そこから知っている人々とのつながりも入りそうだ。イシスならエディット・カフェというシステム。友人のお店の状況。今の日本と世界の状況も含めて考えることが必要だ。

 一体どういうことをしたらぼくらは渦中を切り抜けることができるのだろう。あるいはカオスから新たな創造に向かえるだろうか。「奇妙な動きをして周囲を引き付ける」というと、ぼくは甥っ子を思い浮かべる。Tさんはどんな健康法も実践を継続しないと効果は出ないと言っていた。たしかに実装するにも、実践するしかない。

 電磁波でぼくの頭はもうぶっ壊れてしまったのかもしれない。だからいっそのこと、子どものように偶然を喜び、カオスと遊んだり、奇妙な客神でも擬いたほうがいいのではなかろうか。


 丸く寝る猫の親子に冬日さす


 


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