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千夜千冊・1751夜、ジョン・リーランドさんの「ヒップ」を読んで思い浮かんだことを書いています。
①マイルス・デイビスさんを、というよりジャズをはじめてまともに聞きました。ぼくは椅子の上で正座してしまうのが癖なのですが、ふと気が付くとその正座した右足がピコピコ拍子をとっていて驚きました。普段聞いている作業用のBGMでは、こんなことはあまりありません。曲によって細胞の一部がザワザワするもの、前頭葉がふわっと軽くなるもの、第三の目のチャクラが開くもの、後頭部の筋肉や脳がリラックスするもの…と、それぞれ違うのが凄い。パソコン内蔵スピーカーでYoutubeで聞いているのに、サウンドヒーリングのようでした。いやはや、ジャズの神さま恐るべし、です。
②アンディ・ウォーホルは昔中学校の時美術の教科書で見て、おもしろいなと思っていました。しかしぼくはマリリン・モンローや、あの缶詰が有名だということを知らない中学生だったので、単に「同じ絵を大量に並べる」という見せ方をおもしろいと思っていただけだったのかなと思います。今夜のお話でのウォーホルの思想はとても鋭くて共感できたのですが、あんな人生は幸せではなさそうだなと、少し哀れに思えました。
③読んだことはないのですが、ぼくの小学生時代にも「ハックルベリイ・フィン」がいました。その少年「N君」。引っ越すことを当日まで友達の誰にも言わず、「あばよ!」と言って去っていきました。いくつもの忘れられないエピソードを残して…。ぼくはマンガでN君を原型にしたこともあるので、もし再びあのマンガを描くなら、その前に必ずマーク・トウェインを読まないと!…と思いました。その時は『マルタの鷹』やフィリップ・マーロウも参考になりそうです。
今夜のお話を読んで新しく分かったのは、ともかく日本のサブカルチャー(ポップカルチャー)だけでなく、全てのサブカルチャーがしだいに資本主義に吸収されていったのだということです。資本主義に吸収されていくことによって「ヒップ」は名前だけのジャンル、見た目だけのスタイル、技術だけの様式になってしまったのかなと残念に思いました。今の文化の担い手の多くは権威に対して従順で大人しい印象です。従順でないと儲からない社会システムだからでしょうか。
色々なホンモノの「ヒップ」に少し触れたことで、いっそうそのことが鮮明に思えました。
しかし、かといってぼくは、自分がサブカルチャーやカウンターカルチャーを担っているなんて自負したことはありません。単にぼくは最初からはじかれ除外されている感じです。
今の社会システムについて分かったのは、今夜のお話にもあったように、とにかく全てが金なのだということです。
食うために、コロナについて虚偽報道を続けるマスメディアによって、老人ホームなどにいるお年寄りがワクチンで次々姥捨てならぬ「姥殺し」されていくかもしれません。言い換えれば、マスコミが殺人幇助をしています。このワクチンは遺伝子組み換えによって人を癌になりやすく、あるいは肺炎などになるよう設計されているので、接種後はワクチンによる死ではなく、癌やその他普通の病気としてカウントする目論見なのではないかとぼくは思っています。「みんなで殺せば怖くない」ということなのか。女性は不妊に、子供たちは発達障害に、そして全体的に免疫力が下がり、深刻な神経障害になる可能性があります。うん、吠えてるなぁ。
このような日本で、一人でも多くの人にこの酷い状態に気づいてもらうために、何をどうしたらいいのか…。連中が新しい「常識」にしたがっている、このグローバルデジタルAI独裁新世界秩序に反抗するといっても、実のところぼくは「イシスで何をしたらいいのか」は、今度の試験結果と同じく分かりません。
ぼくは他人から「試される」ということが非常に苦手です。
課題文について、ぼくは「セイゴオ先生の思想をまとめるなんてことができるんだろう。か…?」と思ってしまい、なかなかこの、いつもの「思い浮かんだこと」のようにはできませんでした。ご本を読み、ネットの千夜千冊にパソコンでマーキングした後、ようやく本にマーキングして、それでもどう書いていいか道筋がつけられませんでした。
多分千夜千冊自体が、先生の思想そのものというよりは、それぞれの本の内容の合間に見えてくる先生の生き方だからではないかなぁと思ったのですが、それをそのまま言っては元も子もないので、切り替えてようやくもう一つの課題である「受講の意図」を説明するための、今までのぼくの人生と夢とに、先生のことを編みこんでいくことにしたのです。
でもぼくはパスカルの『パンセ』の章から、「配置をかえること」を思いついたのではないかと思うので、課題に自分の用いた編集方法が、「カットアップ」のようなものになっていたとは、今夜のお話を読むまで気づきませんでした。
時々、実はぼくも、先生がいなくなったらどうなるのだろうということを想像しています。
自分がどう悲しいかなんてことは想像したって仕方がないように思うのですが、「破」を受講中は、先生がいなくなったらイシス編集学校はどうなるんだろうということが勝手に心配になったこともありました。心の中でみなさまに「先生がいなくなったらどうするのですか?」と訊いていたのです。しかしそのことだって、ぼくのようなぺーぺー、いち学衆が想像したって仕方がないことのようにも思いました。
そうおもいながらあの物語を書いたのです。最期は本当は「光の中へ離れていった」とするつもりでした。