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もし、日本という国がなかったら

  • 執筆者の写真: Hisahito Terada
    Hisahito Terada
  • 4月25日
  • 読了時間: 7分

更新日:4月26日




 千夜千冊夜・世走篇、ロジャー・パルバースさんの『もし、日本という国がなかったら』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 先週の日曜、ぼくは天神を猛ダッシュしていた。編集学校のエディットツアーが開催される会場を間違えたからだ。というのも福岡都心には「イエナ・コーヒー」というカフェが、アジア美術館と警固の2か所にあって、しかも警固の店舗は移転していた。スマホを持たぬぼくは勘違いしてアジ美の店に行き、そこからドタバタと警固の店を探して駆け付けた。ギリギリだった。

 会場は小さいながらほぼ満員で、コーヒー好きと見受けられる紳士淑女がそろっていた。ぼくはあがり症なのだが、猛ダッシュしたせいか、前回のツアーほど緊張せずに1コーナーを担当することができた。

 

 守の型を使った自己紹介や連想ゲームで、見知らぬ人同士にも関わらずみなさんすぐに打ち解けた様子だった。複数の情報を組み合わせて新商品を開発する企画も和気藹々と進み、短時間でそれぞれの経験や地元愛や福岡の歴史、洒落やこだわりが詰まった楽しい企画が3つもできた。これぞ編集の型の力であり、今夜のお話にも通じる「場」の日本力である。

 

 最後に学衆や師範代としての体験を語る場面で、ぼくはグダグダだったのだが、ミトマさんは流石、集まった人たちの年齢層や知的好奇心の度合いに合わせて、刺さりそうな編集学校の紹介をしていた。今回のツアーを主催したイシイさんは、帰り際早くも次の企画を見据えていた。ちりもん師範代もこれからは「多読アレゴリア」をしながら、九天玄氣組の活動に参加するらしい。イエナのコーヒーはうっとりするような美味しさだった。

 

 ぼくはひさびさにイシスのリアルワークに参加できて、それだけで興奮してたのか、喋りすぎてしまったなと思う。まあひょっとしたら、ぼくのようなおっちょこちょいな人間でも、編集の国イシスは快く迎えてくれるのだということが、参加者のみなさんに伝わったかもしれない。

 

 「もしも日本がなかったら、世界はうんとつまらなくなる」というロジャー・パルバースさんは、よんどころない事情でアメリカを追われ日本に来て、日本文化に惚れ込んだという。そういう外国人はたくさんいるけど、セイゴオ先生の仰るように、この人の「日本文化の読みの深さ」は、当の日本人が理解しきれていない“ジャパンウェアな価値観”に及んでいて、ぼくなんか、ただただ感心するばかりだ。

 

 この本が出版されたのは2011年だが、著者自身が問題としているのは、八〇年代ごろから、日本が消費過剰時代に突入していったことであるらしい。メディアもメーカーも広告業界も、社会に無関心な大人しい消費者を作ることだけに躍起になり、日本が誇れるものはマンガ・アニメ・スシ・カラオケだという自負だけだということになってしまったことに、日本数寄のパルバースさんは危機感をおぼえるようになったのだろう。

 

 彼はマンガ・アニメ・スシ・カラオケに代表される過剰消費が日本をダメにしていると考えておられたらしい。ぼくはマンガを描いてはいるものの、実は自分ではマンガをほとんど読まないしアニメも見ない(というかマンガを描いていると、他の人のマンガを読む暇があまり無かったりする)。親父が昔鮮魚関係で働いていて、地元の魚で上手い刺身をつくってくれていたせいか、回転寿司には行かないし、人前で歌うのが嫌いだからカラオケにも用がない。ちなみに衛生無害な若者といっても、ぼくはドラックストアなんかの横を通りかかると、芳香剤や柔軟剤の香害で吐きそうになるから、どちらかというと彼の言わんとすることに共感する。

 

 この千夜が書かれたのは、ぼくが『日本力』を読んで先生のことを知り、「意身伝神」で先生に出逢った後のことだ。あの頃のぼくはイシス編集学校に入る前のただのひきこもりだったのに、あの夜明けに先生は不思議なことを言った。ぼくは東京から福岡へ帰ってからも、その意味をずっと考えながらマンガを描いていた。そんなときに千夜千冊を読んでいて、ぼくは先生がぼくに語り掛けているような気がして、それでブログに「千夜千冊を読んで思い浮かんだこと」を書き出したのだ。

 先生はべつだんぼくだけに宛ててこの千夜を書いたワケではないのだが、今読み返しても「日本」と「守の講座の内容」が結び付けられていたりして、ひょっとして先生はぼくが編集学校へと入るように誘っておられたのではないかという気がする。

 

 それはぼくの思い込みだとしても、セイゴオ先生はパルバースさんの見方のなかに爆ぜている日本を、日本人にこそ実感してほしいと思い、この千夜を書かれたのだろう。

 

 日本は単一民族的なJAPANではなく、一途で多様なJAPANSであること。日本人の風土感覚は、自然や風景と身体感覚が感得しているものを切り離さないものであることなど、今夜のお話には、日本の社会文化の多様性をつぶさにたのしむための見方にあふれている。

 

 日本人は平時に協同性を練習できており、日本ではあらゆる場所が“舞台”になっていて、それが「もてなし」「ふるまい」「しつらい」として、神をはばかる奥ゆかしさにも、神と親しく共感し合う能動的な感覚にもつながっているという。

 

 しかしぼくの地元では、神にはばかるどころか、神社のすぐ横の緑地や田畑が潰され、大規模開発が起こっている。働いている土木のあんちゃんたちに悪気はなく、彼らはそうしないと生きていけないからそうしているだけなのだろうが、日本各地には劣化して工事が必要な道路や橋があり、寂びれた商店街やスーパーやらゲームセンターやらパチンコ屋やらのハコモノ廃墟同然の建物が腐るほどあるのに、なぜまた新たに自然を破壊して新しいゴミを作るのか。なぜぼくらは大切なものを壊してまでゴミをつくって、しかも多大な労力使ってを生み出した糧を、タダ同然で奪われなくてはならないのだろうか。

 

 アメリカが中国に関税をかければ、共産党中国は日本をのっとって抜け穴に使う。媚中日本政府はアメリカの100年国債を買って、中国様のために関税を下げてもらおうとケツ嘗め政治をするらしい。地域通貨という手があっても、そこに税金をかけられる可能性もある。たしかに自給自足に向かうことは大切だが、土地や水源を守るためには、多くの人が政治にも関心を持っていないとどうにもならない。今度の選挙での不正を防ぎ、自公維新その他を終わらせない限り、どこまでも日本と日本人は、売国奴と地球の破壊者たちの生贄にならなけらばならないということだ。

 

 大西つねきさんの言うように、ぼくらはあまりにも自分たちの命を安売りし、結果的に日本の未来や、子供たちの命までも安売りしてしまっているのだ。汗水たらして働いて稼いだお金が、戦争や人身売買や人殺しなどの植民地支配に使われているということなのだ。

 ぼくらはそうした企業の製品やサービスをボイコットするだけではなく、そうした企業で働くのもやめたほうがいいのだろう。

 

 かつての日本人は、控えるべきところを控えていただけではなく、一方では身分の違いも本分の違いも平気で、反逆の精神で時代を動かしてきたのだという。

 今月の14離企画会議の文巻読みでも、丁度トランスとアウトサイダーの関係が話題になった。当時の赤ラン師範代はそこに注目して回答されたようだ。

 

 今のぼくらはとくに、一国のオリジナリティとは、その国の過去のあらゆる文化を再発見、再発明、再創造することにあることを思い出さなくてはならないのではいかと思う。

 そして本当にイノベーションを起こしたいなら、ただ目先の利益のために移民を入れたり、外から言われるままにするのではなく、思想や文化をフィルタリングしながら、それを自分たちの風土に合わせて編集していかなくてはならないのだろう。

 かつてのぼくらはそうやって日本語を作っていった。ぼくたちは歌を歌い、遊びながら国語を作ったのである。空海も世阿弥も芭蕉も、宮沢賢治も白川静さんも井上ひさしさんも、その日本の言霊の力に懸けた。

 

 自分の満足感などに浸らずに他者を理解するように努めること、メディア(とくにマスメディア)が日本の真の問題に目覚めること、クリエイターやアーティストが社会問題を大きくとりあげることなど、今夜のお話は、日本のために動き出そうとするぼくらへの、先生からのディレクションになっている。

 

 さあ描くぞ。14離のスサビ師範代が、なんと「CALLING」のメンバーシップの一人目になってくださった。反響は超ゆっくりだけど(笑)、「本のれんラジオ」のオジー師範など、見てくれた人、フォローしてくれる人も少しづつ増えている。先日はアフロール艦長や編集女将にもエールを送ってもらった。

 ぼくはまだ、この千夜を最初に読んだ頃と同じ、「飛び鉋」の入った、欠けた小鹿田のコーヒーカップを使い続けている。フラジャイルな〝buck the system〟はこれから、ここからである。

 

まなざしを彼方へ誘う若葉風

 

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