美しき日本の残像
- Hisahito Terada
- 4月12日
- 読了時間: 5分
更新日:4月14日
千夜千冊0221夜・意表篇、アレックス・カーさんの『美しき日本の残像』を読んで思い浮かんだことを書いています。
今夜は外国人の著者アレックス・カーさんが、あこがれ夢見た「心の城」としての美しい日本が、日本の見方を忘れた日本人によって失われていく様子が、歌舞伎の思い出とそのステージクラフトの魅力、祖谷の風景とともに、「日本の病気」との闘いの記憶として語られている。
いくつか比べたりしてみて、ぼくはnoteにマンガの記事を出すことにした。wixはスタイリッシュだが、noteはフォーマットやサポートが充実していて、一つひとつの作業をするのが楽しい。エディションの『面影日本』についてのブログをここへ残し、引っ越さなくてはと感傷に浸っていたが、よく考えたら両方続けるということもできる。上の動画を拝見するかぎり、アレックス・カーさんも日本を見捨てず、戻ってきてくれたようだ。なんと義理堅い方だろう。
先日は久々にイシス編集学校の「伝習座」に参加した。江戸文化の研究者でもある田中優子学長の生講義が聴けるということもあって、かなりの人が集まっていた。日本独自の「あやかる」という方法がメインテーマで、前半は江戸時代の多様な出版物を事例に、肖るのはコピーとどう違うのか、江戸の人々のように遊び、人生を謳歌するにはどうしたらいいかについて交わされた。学長が次々と紹介してくれるビジュアル資料が面白かった。鍔や目貫や浮世絵の一部は見たことがあるものもあったけど、江戸時代の人が欽ちゃんの仮想大賞みたいなことをしていたとは知らなかった。
後半はセイゴオ先生の校長講和の映像を交えながら、あやかることと認知の関係、あやかることによって自己や社会をどう編集していくかといった濃い内容についての、刺激的な話し合いになった。
ハナエさんは物語講座の読了式の司会をされていたし、ヒラノ師範はパンを焼きながら花伝所の花目付をしているし、最近14離のメンバーがいたるところで活躍しているのを見る。今回はハナオカさんが右近としてたくさん光る発言をされていた。アニまるズのウチムラさんも、もう師範になられたようで、活躍がまぶしい。
ぼくもいつか破の師範代をしてみたいと思ってはいたものの、マンガを描くとなると、これからイシスの本格的な活動をするのは難しくなっていくのかもしれない。
しかし編集術は編集学校の中だけで使うものではなく、学んだ人がいくらでも自分の人生に活かせるものなのだ。ぼくとしては今回は、先生のホワイトヘッドのお話の後の、寺田別当のスパースコーディングを場の編集に持ち込む話とか、太田総匠のデュシャンの遅延の話がとくに参考になった。
「おおもと」を直に「=自然・宇宙」とすると文化にはならないが、かつての日本は神仏のイメージの中に「四季のうつろい」や「自然とどう一体化するか」が入っていたために、おおもとを共有できていた。ぼくたちは虚と実を別々に見なしがちだし、「虚」を独りきりでヴァーチャルに浸っていることと考えがちだが、本当はそれ以前に、人は独りではいられないし、世の中には虚と実がひっくり返っているようなことだっていくらでもあるのだといった田中学長のお話には、共感したり勇気づけられるところが多かった。学長が自ら師範代登板される今期がの守がどのようになっていくのか、セイゴオ先生も楽しみにされているのではなかろうか。
『情報の歴史』によると、『美しき日本の残像』が出版された前年(1992年)には「地球サミット」が開かれ、日本では地域の伝統芸能を活用し、観光や商工業の振興をはかるための「お祭り法」が法制化されたそうだ。あの当時からすでに為政者らによるキックバック目的の規制緩和と、大企業の進出と開発によって、世界各国で風土と文化が破壊され、パフォーマンスのような形だけの対策が講じられてきたことが見て取れる。
カーさんの戦友でもあるセイゴオ先生は、きっとずっと同じ危機感を抱いていたのだ。
ぼくはカーさんが、エール大学の日本学部で教えられた「甘えの構造」というのは、今で言う「自己責任論」みたいなものだろうかと思った。こうした見方が輸入され流行したために、日本人は「おたがいさま」とか「ゆずりあい」とか「はたらく(働く=傍を楽に)」といった見方を失ったのではないだろうか。
カーさんが日本の山や川や森を思い出して涙ぐんでいたというセイゴオ先生の記述に、ぼくも地元の破壊された山や森や田畑を思い出して胸がつまった。今の日本の風土と文化は、この本が書かれた頃よりさらに悪化して、ご飯を食べるとき「いただきます」や「ごちそうさま」を言わなくなっていったり、奈良県知事が民俗博物館の資料を廃棄しようとしているなどといったことが起こっている。
意外なのは大本教が、布教活動より芸術活動を重視してきたということだ。大本教は何でもかんでも金に換えて滅ぼす、拝金為政者や拝金団体とは、真逆のことをしてきたということだ。
今夜のお話は冒頭にも、坂東玉三郎さんとアレックス・カーさんがが「お互いにコニヨシェンティにはならないようにしよう」と語らう場面がある。
コニヨシェンティとは「何も作れない連中」という意味らしい。ということは、かつての日本人の多くは、物知りではないが何でも作れる連中だったのだろう。
ぼくもカーさんや先生を見習って何でも作れるようになりたい。とりあえず今日は庭に落ちてる枯れ枝を彫刻刀で削って、爪楊枝を作ってみた。ウチの庭の枯れ枝なので、使った後は自然に戻せる。
売れるかどうかは置いといて、noteに色々なコンテンツを作るのも楽しい。ゴミ拾いも、ぼくにとっては遊びみたいなもので、こないだは例の畑の横の川辺に、派手なパンツが捨てられていた(火ばさみがあってホントによかった…)。その前はゴミの山に埋もれそうな亀に出会った。その一匹の亀のために、がんばることができるように思う。
亀鳴くや生きとし生ける夕間暮れ