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千夜千冊1772夜、ウォレン・ケントンさんの『占星術』を読んで思い浮かんだことを書いています。
驚いた。ぼくはこの“変な図像”いっぱいシリーズ本(平凡社のもの)を数冊、たまたま古本市で手に入れ食い入るように眺めては、本棚が無いので、ベッドと布団の間に敷いて寝ていたことがある。閑散とした売り場に吸い寄せられ手に取り、安値で売られていたことに、魔法の虎の巻を掘り当てたような興奮があった。だがぼくはその全部を「最後の上京」前に手離してしまった。何故だったか…たしか『霊・魂・体』『錬金術』『タントラ』『魔術』を持っていて、ときどき悪い夢を見るのは『魔術』のせいではないかと思い込んだせいだった。まさかセイゴオ先生が千夜千冊で取り上げるとは思わず、惜しいことをしたなと思う。こんなにたくさん種類があったとは知らなかった。いつかファンタジーのマンガを描く前に、「世界イメージの臍」からつま先まで、是非とも目を通しておきたいものだ。
先生がシリーズと出会ったのは、杉浦康平さんに導かれてのことだ。「あのね、どんな図像も輪郭とコンフィギュレーション(布置)と細部が重要だから、よくよく見るといい」という杉浦さんのご指南は、マンガにも通じると思う。不思議だ。世界の写真集を片っ端から見たり、“Art and Imagination”と格闘してきたセイゴオ先生ほどではないが、ぼくも写真や凝った図像を見るのが好きだったりする(イラストを描く人間はたいていミュシャが好きだよね)。杉浦康平さんと先生がタッグを組んだ『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)が「あの“変な絵いっぱいの本”っぽいな」と思っていたのだが、それは偶然ではなかったようだ。当時先生は可視化されたイメージ群を次々に言葉へと置き換えていったが、ぼくは今逆に言葉でのイメージ群を図像へと変換している。
今夜の『占星術』は、古代以来の占星術師たちや歴史の中の表現者が、天界にひそんでいるだろうルル3条(ルール・ロール・ツール)を、どのような構図や構成に変換していったのかを紐解いた一冊だ。
人間文化の歴史には、気になることを「見えるもの」「読めるもの」にしていくリプリゼンテーション(representation)と、簡単には分からない世の中の「隠れた動向」を予測的かつ暗号的に浮上させるという二つの流れがあるのだが、占星術にはその両方の川の水が流れている。これをいちがいにエセ科学だとか、オカルト科学だとは言いきれない。真理探究とアレゴリカル(寓意的)な「暗合のしくみ」が半分半分になったシステムなのだ。
先生の周囲には占い師の類いの知人が多いらしい。ぼくは鏡リュウジさんに会うことがあったら「どうして占い師の名前って、独特の雰囲気があるんですかねぇ」と聞いてみたい。ぼくはどうも恥ずかしくて、「ザ・占い師」的占い師にはなれそうにもないと思う。
それにしても、易・タロット・占星術・手相・陰陽五行・風水・スクライング(水晶占い)は聞いたことがあるが、心法・ジオマンシー(土占い)・奇門遁甲などは初めて聞いた。「心法」というのは仏教で言う「色法=肉体」にたいする「心法=精神」のことなんだろうか。調べついでにジオマンシーをやってみたら「コンジャンクシオ」(Conjunctio)と出る。
今、日本は相当ヤバイし、ぼくは金も権力も何もない、ただのマンガを描いているフリーターだけど、個人的には毎日笑ったり怒ったり、多分他人から見れば相当些細なことに感動したり、がんばっている人に拍手を送りたい気分になりながら、わりと楽しく生きているので「悪い状況が好転する」と言われても「ふ~ん」という感じだ。ワクチンを強要されたらバイトをさっさと辞めようと思うので「転職と引っ越し」がちょっと気になってはいる。
フーチ(ダウジング)ができるようになる前は、ぼくも占って貰うのがおもしろかったし、毎年貰う暦の吉日を気にしていたのだが、今はそんな気があまり起こらなくなっている。〔離〕後は特に「そんな暇があったら本を読むかマンガが描きたい」と考えるようになった。
しかし「ツキ」や「ゲン」というもの、語源なんかを知るのはおもしろい。ふと、現代のゲン担ぎには修験道のような地霊との共鳴関係、大自然などマクロコスモスへの畏敬の念が無いから、たいした効き目もないのではないかと思う。
悩んでいるときは必死に流れに抗っているから余計に運命が気になるものなのかもしれない。いまのぼくにとっては運命や宿命は、自分自身の対象ではなく、表象のテーマになっていると思う。先生の仰るように「どう綴るか、どう描くか」の問題なのだ。
占術は何かの現象を予兆とみなして幾つも並べ、その差異目録をつくり、それに則る。基本には観相学や現象学あるが、先生は問題はその勝手な恣意的・世俗的解釈なのだという。このご指摘は全てのメディア(media)に通じると思う。
紀元前2000年紀のバビロニアの時代から、占星術は神々と王と王家の吉凶を占うために存在した。農耕型の王朝のため、天候が権力の行方を左右したのだ。「多神教の風土」であったこと、叙事詩能力があったことも占いの隆盛に拍車をかけた。その技法と暗合術は、前4世紀アレキサンダー大王期のヘレニズム(融合文化術)の影響を受け、そこからホロスコープ(horoscope)がうまれた。 ついでホロスコープは紀元前3世紀にギリシアに伝わり、アストロ(星)を扱う学問・アストロロギア(astrologia)という新たな「判断のシステム」として確立した。
ホロスコープは個人の出生時と星位図をつなげたもので、特定時点の天体チャートにあたる。「星座」(constellation)を発明したのは古代エジプト人だったが、バビロニアはのちの88星座のフォーマットにあたる66の星座を想定した。
「どうして星座がうまれたか」色々な説があるが、先生は古代人のく遊牧民や羊飼いや漁師たちが「移動のためのアトラス」として、星座を思いついたのではないかと思っておられるそうだ。『モアナと伝説の海』も、その説を推している。ぼくは今のところプリンセス系作品の中ではモアナが一番好きかもしれない。ディズニーは悪魔崇拝主義のグローバリストに、シンボルの多用で媚びているようにしか思えない作品と、組織に属しながら内部から警告を暗示しているような作品がが混じっているように見える。ただ(USJしかり、どこの企業も同じだが)、テーマパークや大型リゾートを店じまいするか、経営方針を変えないと、彼らのしていることは実質的には、自然環境や固有文化という<共>(コモン)と、その地に生きる人々を断絶し、ディズニーというデパートに陳列するだけの”破壊と消費の創造”にしかなってない。
話が随分逸れてしまった。やがて占星術はローマ帝国の拡大にともなってさまざまな実用性を発揮した。蓄積した知識は中世の教会や修道院でも教えるようになり、人生や農耕や商業のヒントになった。大学でも占星術は一般知(ゲニカ)の基礎のひとつだったのだ。
原始古代、占術や占卜術はどんな共同体でもおこなわれた。鹿の骨での占いであれ、湯水に手をつける太占(ふとまに)のような占いであれ、「お題」を立て、何かの対象の変化を読みとり、その徴候(シンプトン)に意味を読み取るという行為がなされた。
占い(fortune-telling)の結果は、吉兆いずれの結果にかかわらず「神託」(oracle)が下りたとみなされた。
言わずもがな占いには占術者(占い師)が関与する。そうすると占術者のパフォーマンスや解釈力が神託の結果に偏りをもたらすことになる。また、占術者がトランス状態をおこすことも少なくない。
オーメンというと今では悪魔の数字666を有名にしたスリラー映画だが、もともとの「オーメン」(omen)、すなわちオミーナ・オブラティは、「よくないことがおこる前兆」を意味した。だから占術者のパフォーマンスにオーメンの徴候があらわれると、前兆の奥に「悪さをする者」や「邪悪なもの」がいるのではないか、占術者や関係者に悪魔や悪霊が憑りついているのではないかとみなされるようになった。
こうしたオーメンの介在が、しだいに占いを呪術的におおげさにしていき、結果シャーマニックな占いが中央ではだんだん避けられるようになったのだ。そこに浮上してきたのが占星術のような、あたかも「客観的に神託が見えるようなしくみ(判断のシステム)」だったのである。
その占星術もだんだん合理的な科学に道を譲ることになり、天体科学が発展すると、主な対象は「天体」から「身体」に移り、マクロコスモスとミクロコスモスとの連関が主張された。有名なのがパラケルススだが、徐々に占星術は擬似科学とみなされるようになった。
つまり占星術は科学に追いやられたのである。しかし20世紀のヒトラーから21世紀の芸能人まで、ファーストレディから女子高生まで、星占いはますます盛況になるばかりでちっともなくならない。なぜなのか。ぼくは科学にだってまだ「分からないこと」がたくさんあって、とくに宇宙の謎、はるか彼方の遠い世界の謎が解けていないことが、人間一人ひとりにとっての自分の人生や他者の気持ちが「分からないこと」に似ているからではないかと思ったりする。
本著によると、占星術の20世紀に再ブームにはユングが心理療法として占星術を重視したことが関与しているそうだ。
千夜千冊にて紹介されたユングの『赤の書』の美しさに見入ってしまった。ミシェル・セールの言葉のように、いくつもイメージが取り出せそうな図像だ。増川先生のサウンドヒーリングの一部は、ユングの心理的な解釈を身体へと拡張したものに近いのではないだろうかと思う。
やはり日本には本格的な占星術史の本は少ないようだ。先生が推薦されている山内雅夫氏は、占星術というものはトーテム神秘主義が派生させたシンボル操作術のひとつだとみなした。トーテムとは部族や共同体の代表的な観念を視覚的にあらわしたものだ。
しかしセイゴオ先生は、トーテム思考だけではなく、占星術には「アルス・コンビナトリア」がはたらいたと見ている。占いとは天と地を結ぶ編集術なのである。
あの人の宿命も天の川の中