top of page

山家集

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 千夜千冊753夜・意表篇、西行の『山家集』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 今回の方源のオツ千のキャッチ画像は、認知科学を先行していた西行の心の見方と、脳に見立てた花見がリンクしてお洒落だ。桜の心か心の桜を見ているのは西行のようでもセイゴオ先生のようでもあるが、今夜のお話は、先生が「いはれなき切実」や「わが心かな」によって、すべて表象しようとした西行の生涯と、「花の所在」を思った歌について、銀座パステルや未詳倶楽部といったサロンの思い出を織り交ぜながら語っている。

 

 西行自身が生きた時代は、血なまぐさい政変が続き、源平合戦が起こるなど、乱世の真っただ中だった。政変や戦争と言えば、この千夜が書かれた2003年も、小泉政権が勝ち、郵政民営化やイラク自衛隊派遣など、売国従属政策を推し進めた年だった。

 『情報の歴史21』の2003年のには、多和田葉子さんの『献灯使』の一文が載っている。この作品は近未来のお話なのだが、日本の「勤労感謝の日」が働きたくても働けない若い人たちを傷つけないために「生きているだけでいいよの日」になったという。

 さとうみつろうさんの「勤労感謝の日=新嘗祭」の動画を見ていると、多和田さんの書いたような赦しを、互いに与えられることこそが本当の平和であり、生きていることへの感謝につながるのではないかと思う。

 

 「ほんのれんラジオ」でも民主主義や選挙を取り上げていたが、前回の選挙に国民の意思がある程度は反映されたことで、政治への関心がかなり高まっていること自体は、とてもいいことだ。

 だが、今度はSNSを舞台に、電通や経産省から出資を受ける会社に雇われているネット工作員が「マスコミを敵に回すヒーローの出現」というシナリオに基づき、人々の心理を操作して世論を自分たちに都合のいいように誘導する…ということが始まっているらしい。これに多くの人のいい方々が、騙されてしまっているのかもしれない。まあ、そういう即席SNS用ヒーローも、マスコミが「これだからSNSは…」と言うために使い捨てられたりするのではなかろうか。政府とマスコミとグローバル企業が進んで国民を殺すような現代は、西行が生きていたころとなんら変わりない乱世なのかもしれない。仮に自民公明維新などが終わったとしても、後から後から出てくる”流行りの人物”に対し、注意深く冷静でいなければならないようである。

 

 政治というと国会や永田町のごちゃごちゃした権力争いのことだと思われがちだが、本当の政治とは、ぼくたちの生活や社会、環境と地続きのはずだ。

 日本の歴史や文化、中東ウクライナなど世界の実情、軍産企業が加担する臓器売買人身売買など。世の中の色々な問題に関心を持っていないと、ぼくたちが自分の首を絞めてしまうばかりか、若い人々や子供たちの未来が立ち行かなくなるし、何もかもコントロールしようとする人間の傲慢さによって地球が滅びてしまう。だから、本当の闘い…というか百家争鳴、あるいは寄合による、地域・社会・世界編集はここからだ。

 

 千夜千冊とオツ千では、西行が各地のキーパーソンを結ぶネットワーカーとしても紹介されていた。話し合いながら編集していく…というと、ぼくの新しい仕事も、作業時間がクオリティに直結するので、作業内容が複雑になるほど、どのくらいの質を目指したらよいかという判断が難しくなる。最終的には責任者の方が求める質に合わせていくことになるから、そのためにも上司となる方や、同僚の方々とも、仕事上の深いコミュニケーションができるようになったほうが良い気がしている。

 

 ぼくが貸した『昭和問答』を読んでからというもの、セイゴオ先生や田中優子学長にすっかり感心して、お二人のオススメ本をぼくより先に読むようになった母と、先日山に登った。

 ぼくは毎年母と花見に行ったり、紅葉を見に行くので、ぼくは今夜のお話を読んでいて、この前山頂で「あと何回一緒にこの景色を見れるかな」と思ったことを思い出した。日本の様々な歌に何度も詠まれてきたように、桜は人に命のはかなさを思い起こさせる。


 今夜のお話で、ぼくは先生から「別れを哀しむのではなく別れを惜しむ」という、惜別の方法を伝授されているような心地がする。一体別れを哀しむのと、別れを惜しむことの違いとは何だろう。別れを哀しむというと、哀しむ自分に重心が置かれている感じがするが、別れを惜しむというと、自分と相手の間に心の重きが置かれているように感じられる。たしかにイシス編集学校の、感門の盟の別れ際はそういう気分になれる。だけどぼくはいつかやってくるだろう家族や友人との長いお別れに対してそんなふうに振舞えるのかというと、まだ心もとない気がした。

 覚悟するまでもなく、ぼくは何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を、はじめから失くしてしまっているようでもあるのだが。

 

 紅葉して別れを惜しむ桜かな

© 2023 EK. Wix.comを使って作成されました

  • w-facebook
bottom of page