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千夜千冊1791夜、オイゲン・ヘリゲルさんの「弓と禅」を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1791.html 先にお耳汚しをしておこう。どうやらこの寒波はケムトレイルとレ電磁波によるもののようだ。バイデンのお寒い「ダークウィンター」とかいう作戦と、オミクロンと剃刀グラフェンワクチンと、同じく剃刀グラフェン飲み薬と5Gはセットなのだ。人殺しと環境破壊と主流メディアの嘘が悪魔の所業セットなのだと思った方が速いのかもしれない。「光陰矢のごとし」なら意識の速度を上げたらいいのかななどと想像する。ああ、新年となった。 ここ数年は晦日になると先生から虚子の句を聞くのが恒例になっていたので、昨年末は一体どうしたのだろうと思っていたら、先生はお風邪を召されたとのことだった。そうとは知らなかったのだけれど、前回は句をつくろうとしたらどうしても「棒の如きもの」が浮かんでしまってなかなかうまくいかなかった(笑)。とにかく先生がデトックスされて、無事新年を迎えられて何よりである。
ぼくは除夜の鐘を聞きながら、『外は、良寛』を読みつつ年を越した。初日の出も見ず、相変わらず甥や姪の誰にもお年玉をあげずに、元旦から布団を干し、小鳥に蜜柑をおすそわけして、午後から地元の神社に行った。空いた時間でマンガの次の話のネームを作り始めた。お晦日から正月にかけての、しんしんとした空気が好きなぼくとしては最高の過ごし方だったと思う。
次いでまさかKさんの判子が可愛いメッセージ入りの年賀状が来るなんて思わなかったので驚いた。ぼくはもう何年も年賀状を出してないのだが、こうして一からデザインされているような、手の込んだものをいただくと素直に嬉しいものだ。どうお礼をしたらいいかわからない。 さて今夜のお話は弓道の極意についてである。マンガではチャンバラしているものの、ぼくは運動音痴で武道のこともそんなによくは分からない。幽体離脱の経験はあるが、周囲がスローに見えるようなゾーンに入ったことはない。だからぼくの実感は、ただ東洋の神秘に憧れているガイジンさんと近いのではなかろうか。 日本の弓道には「射法八節」(しゃほうはっせつ)といって、弓道場で定められた位置に立って弓を射放つまでの動作を八つに分けている。その六つ目と七つ目に「会」および「離」と呼ばれる段階があって、この「会」「離」のプロセスのどこかに何かが「満を持する」という、弓道の極意が隠れているようだ。 著者・オイゲン・ヘリゲルはドイツの哲学者で、1924年5月に東北帝国大学に招かれて、日本の青年たちに哲学とギリシア語とラテン語を教えることになった。来日前から禅に興味を持っていたため学ぼうとしたが、周囲から難しいだろうと諭(さと)され断念。その後縁あって東北帝国大学の阿波研造(あわ・けんぞう)氏に弓道を習うこととなった。阿波研造さんはただの武術家ではなく、長年の参禅の末「弓禅一味」「射禅見性」という新たな道を切り拓いていた。静かな人であるのに、ただならなぬ氣を発していたらしい。書や読書や思索や講話に集中しておられるときのセイゴオ先生や、踊っているときの田中泯さんや、編集学校〔離〕コースの火元組の人々がそろったときみたいな感じなのかもしれない。 ヘリゲルさんはやはり名人の教えに相当苦戦したようである。 矢を的に中(あ)て「やった」という顔をすると、必ず咎められるというお話を聞いて、ぼくは編集学校の花伝所の錬成を思い出した。「当たった」と思うとたいてい勘違いや間違いなのだ。それを弓の名人は「会」から「離」への心得がなってないと叱る。 ははぁ、的というのは「正解」によく似ているのだな。では「会」や「離」とは何なのか。ヒントは日本語にある。しかしこの先は一人ひとり自ら掴み取らなくては意味が無いのだろう。 ぼくは今夜、「目的」を上回るためには「的にとらわれない弓禅の気概」を持つというお話や、「目的」=ピンポイントのオブジェクトを「目当て」と緩くみなすというお話が、社会のあらゆる場面で大切になってくるように思えた。学校の道場で気づいたことの言いかえともいえそうだ。 同じ道場の熱意の人・Nさんは、弓道の「射法八節」を、編集学校の〔守〕コースで習う、あのプロセスの型にさっそく重ねていた。ぼくもマンガ中で正しい弓の技術を直接表現するより、「会」や「離」を会得して方法として放てるようになりたいものである。むろん会得にもいくつもの層(レイヤー)があって、今のぼくが得られるところと、名人の「会」や「離」は雲泥の差なのだろう。 セイゴオ先生も昔テレビで、弓の達人・増渕敦人氏が、名人・岡崎廣志氏に「技術はもっているのだから余計なことをするな」とか、「もっと上にいけるのに、小さく止まっている」「的に中てるのではなく、空間を表現してみなさい」と指導されるのを見たそうだ。古武術家の逸話といえば、ぼくも以前山本兼一さんの『命もいらず名もいらず』で読んだ鉄舟と浅利又七郎との見えない闘いの話は強く印象に残っている。 ぼくはチャンチャンバラバラを描く愉しさとは別に、武道に内発するという「かたち」の「ちから」に興味があるのだろう。現実的な実戦でも魔法でも無い、しかしそのどちらとも、両方でもあるような絶対矛盾的「あわい」に。 ぼくは自分のマンガの「正解」など知らない。中(あ)てるも何も、もはやその必要を感じていない。ただ描く、ただ放つだけである。だからといって(昔はそうだったけれど、今は)破れかぶれというワケでもない。達人の増渕氏に岡崎名人が説いたように、ぼくも「…イメージして大きな遠くの大きな世界にまで戻る。とことん伸びる。矢なんてどこいってもいい」のだ。 籤引かず破魔弓きりり引き絞り 正月、最初に行った神社が矢鱈(やたら)混んでいたので三社参りはやめて、三日に散歩がてら家から一番近い小さな神社に行った。拝礼してふと、どんど焼きから鳥の声のするほうへ目をうつすと、立ち上る煙に木漏れ日が射して、なんとも言えない美しさだった。「あしらい」と「間」。ぼくがその景色に気づいたのはたまたまに過ぎないが、「遇」の発現に心を致すための用意とは、ああいった瞬間に巡り合うためのものなのだと思う。 日本と世界が守られますように。命が護られますように。