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徒然草

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 千夜千冊367夜・歴象篇、吉田兼好の『徒然草』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 今年は紅葉をよく見た。とくに紅葉を見るためにどこかへ行った時ではなく、買い出しや他の用事でどこかへ行った際に、車窓から道路脇の木々が燃えるように染まっているのを。銀杏が風に舞っているのを見た。遠くの山の紅葉は、鮮やかな赤や黄色だけでなく、その間をつなぐ多様な色があってこその、あわれなのだと、思った。

 

 先夜に続いて「オツ千」には、千夜千冊パラダイスのメンバー、サヤ姫が登場した。ぼくはサヤ姫と直接お会いしたことは無いものの、エディストの伝説的(?!)24時間限定記事は時々読んでいるので、どんな人なのだろうと思っていたら、林頭の「こういうの、どう思う?」に対して、はんなりふんわりした受け答えをされていて、なにか場が和やかに華やいでいるように感じた。この方はラジオなどのメディアに向いているのかもしれない。

 

 ちょっと違う意味かもしれないが、ぼくも掃除したり布団を干したり、洗濯を干したり畳んだり、米を研いだり味噌汁を作ったり皿を洗ったりと、日々細々したことするし、だからといって特に家事が面倒だというワケでもなく、気分転換にもなるので「生きていることは基本的に煩わしいものだから、あまり考えないようにしている」という素朴な感想には、共感するところがあった。

 

 今夜のお話はチューインガムを噛むように読むことで味わえる『徒然草』の無常観がテーマとなっている。

 

 『徒然草』が書かれたという1330年から1350年頃は、『情報の歴史』で言うと、後醍醐天皇が隠岐配流される(護良親王が吉野で挙兵し楠木正成ら悪党が、これに呼応)とあり、決して穏やかではないものの、オツ千によると前回の『方丈記』が書かれた頃とは違い、有が無化する(今あるモノが失われていく)無常というよりも、無と無の間にたまたま有があるだけなのだといった無常観が芽生え始めたらしい。たしかにこの時代に発達した枯山水など禅宗文化は、余白の美や引き算の美など、無の間から生まれる一瞬のはかなさやおもしろさを重視する時代だった。ぼくにとっては難解なディマケーションの意味については、オツ千でホズミさんが具体的な例を出し、ほぐしてくれている。

 ぼくはなんだか『方丈記』から『徒然草』までの120年のうちに起きた無常観の変化が、『AVENGER』から『侍JOTO』までの間に起きた自分の心境の変化と重なるようにも感じた。

 

 先週は、無常というほどではないのだが、仕事中にパソコンが更新に伴って(?)やけに重くなったり、シングルマザーの姉が風邪を引いたりと、予想外の出来事が多くて大変だった。しかしたまたま、ぼくがFさんの奥さんと、Tさん宅の大掃除に行ったことで、Tさんから漢方の薬をもらえたり、そうしてぼくが出かけているとき、母が偶然家に鍵を忘れて、お隣のおばさんの家にお邪魔して晩御飯をご馳走になったことで、友達を亡くして落ち込み、食欲を失っていたお隣のおばさんが、ようやくご飯を食べれて元気になったりと、みんなお互いにつながりあって助け合う不思議な救いがあった。ぼくもトラブルがあった日は、上司の方が穏便に対処してくださって助かった。


 亡くなった方(隣のおばさんの友達)は、今年ぼくの家の雨漏りを直してくれた大工さんだった。7回目のワクチンの影響か、最近またひっきりなしに救急車のサイレンが鳴っている。母の働いている老人ホームでは、元気だった入居者がワクチンを打って3日後に亡くなり、同僚が体調を崩してシフトが変わったりした。6回ワクチンを打った、母のお姉さんの連れ合いのおじさんも、先日脳腫瘍が見つかって手術したものの、癌が飛び散ってステージ4だと言われたところである。

 あまりにも多くの人が死に、病気になっている。

 

 最近ぼくはあるテーマについてモヤモヤしていたのだが、今夜のお話が大きなヒントとなって、自分なりの考えを言葉に出来たように思う。何といったらいいか難しいが、千夜千冊に「兼好こそは煩わしいものを遠ざけ、うるさいものをマスキングすることを発見していた」と書いてあったので、最初は「煩わしい」と感じたそのテーマ自体を無視しようと思ったのだが、上記のような出来事が連続し、なかなか時間が無く、オツ千を飛び飛びで聞いているうちに、セイゴオ先生や吉田兼好は、そういうことを言っているわけでは無いのではないか…と思うようになったのである。

 

 先生は、世間のしがらみを断つとか、関係そのものを断つとは書いていない。千夜千冊には「伏せることで迷いを断ちなさい」「いっさいの見方を変えなさい」と書いてある。それで、ぼくはマスキングテープを貼る箇所を間違えていたのかもしれないと思い直したのだった。

 

「モヤモヤする」というのは、マスキングテープを張り付けて、これは「○○」であると分類してみたものの、その下に何が書いてあるのか、気になる状態と似ているように思う。そこで先週の後半、ぼくはアタマの中のテープを剥がして、もう一度貼りなおすような作業をしていた。そうすると本当は自分が何を知りたいのか、何をどう思いどう感じているのか、断つべき余計なところと、表現したいところが少しづつ見えてきた気がした。

 何かについて考えていくとは、このような開け伏せの繰り返しなのではないだろうか。

 

 今夜のお話でセイゴオ先生は、逃れられない俗世のしがらみから生じる迷いを、どうやって断つのかを教えてくださっている。無常を凝視しし、ディマケーション(分界)して前後を綴ることで、その一瞬、ある瞬間の時の価値を「さらりとした残花のほうに移す」。その方法を、実際に千夜千冊という縁側で、お茶を淹れチューインガムを差し出すように紹介してみせてくださっているのだ。


 12月21日、ぼくはさとうみつろうさんが、令和七年の御刻(ミトキ)に、純正律のピアノで、みんなの願いを運んで炊き上げてくれるので、会場には行けないが、恵方255度へ向かって祈りを捧げることで、「そこ」に参加しようと思っている。

 

 先生のお別れ会にも、ぼくは行けない。14離の仲間がトキのお裾分けしてくれるのを、楽しみにしている。

 

 暗闇に熾火の如き冬紅葉

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