愚管抄
更新日:6月1日

千夜千冊624夜・歴象篇、慈円の『愚管抄』を読んで思い浮かんだことを書いています。
5月5日に、ぼくは深田萌絵さんのビジネス・パートナーである、ジェイソン・ホーさんとパク・ボヨンさんによる『BIG PLOT』の講演会に行った。今回の講演内容についても、自分なりにまとめるつもりでいたのだが、あまりの証拠資料の膨大さに、これは個人が一人でまとめることのできるレベルのものではないと感じた。
率直に思ったのは、ジェイソンさんは物凄い天才であるということだ。まだジェイソンさんについてよく知らない頃、ぼくは彼が「F35戦闘機の開発者」と聞いて、単に武器や飛行機の開発者を思い浮かべていたのだが、とんでもない勘違いだった。
ジェイソンさんが開発してきたのは、光ファイバーやリユーザブルチップ(リサイクルできる半導体チップ)など、あらゆる製品をより高性能で長持ちさせるものにして、環境や人体への負荷を減らせる素晴らしい技術だった。
それが浙江財閥に盗まれ、安価で環境を汚染する製造方法で作られ、しかも戦争や監視や犯罪に利用されていると思うと、ぼくも腹が立つ。またジェイソンさんと同様に、日本の多くの技術開発者たちも、懸命に考えた技術を二束三文で奪われ泣き寝入りをしているのである。もしジェイソンさんや日本の技術者たちの開発した技術が守られ、評価されていれば、日本だけでなく世界中で多くの資源が無駄にされず、こんなに酷い自然破壊や、企業の倒産も無かっただろう。
今回のブログでは久しぶりにオツ千に取り上げられた千夜に注目した。ぼくはブログを書くとき、いつも原著は読んでないので、『愚管抄』についてもっと知りたいという人は、ぜひオツ千を見たり聞いたりしていただきたい。
『愚管抄』とは、源義経や北条政子と同世代を生きて、仏教界の最高峰とも言える天台座主にあった慈円が書いた「道理」の歴史思想だ。「なるほど、ドーリでね」というときの「道理」のことである。千夜本編を読んでもらえると分かるが、慈円が生きたのは朝廷政治の内紛から武士が生まれ、やがて権力の中枢として台頭していく乱世の時代であり、骨肉の権力争いが繰り広げられ、天変地異が起こる末法の世だった。
ぼくは古い時代劇はよく観ていたけど、大河ドラマはほとんど観ていないから現代日本人の平均的な歴史観は知らないが、昔の日本人は判官贔屓で、挫折者や敗北者に肩入れするのに比べ、トップの座についたエリートの歴史観に興味をもってこなかったらしい。ぼくもたしかに、庶民的な感覚や遁世の生き方に魅力を感じるタイプの人間だと思う。セイゴオ先生は、だからこそあえて日本ではあまり議論されてこなかった慈円の歴史思想を、この特異な人物が生きた歴史背景ごと掴みたいと思われたようだ。
若くして仏教界のトップになった慈円だが、その人生には共感できる部分も多い。慈円は後ろ盾である兼実が失脚し座主を辞任した後、家の再興を試みて、後鳥羽院と親交を結び、天下安泰を祈祷する日本国最高位の修法者になるも、後鳥羽院が討幕に走って承久の乱となった時、後鳥羽院に武家との対立をやめるよう勧めたのだが、時代を動かすことができず、愚管抄を書くに至ったらしい。これを現代風にすると、自分は策謀家なのだと思ってリーダーを支え、インテリジェンスで争いを回避しようとしたが挫折し、政治の中心から離れて執筆啓蒙活動へ移ったということなのだろう。
また、慈円は情報のすべてを入手するに最も有利な地位にあったのだけれど、それらの情報を自分の身内である摂関家のためにも、自分自身のためにも、また仏教や比叡山の立場のためにも、まったく利用しなかったそうである。その点は特にどこぞの国の首相や財閥一族が、今しようとしていることと全く真逆であって感心する。
オツ千では、愚管抄の道理と末法思想について慈円が七段階で述べていて、その七段階目の最後、「人も自分も何が道理か分からなくなっている状態」というのが現代にも通じていると吉村林頭が言及していた。それに対し穂積さんが、「そういうとき何がイメージ可能なのか、イマジナビリティが重要な問題になってくる。一番怖いのは、自分が何が想像できていないかが想像できなくなることだ。道理が分からないという自覚を持っているならまだ救いようがあるが、現代人はそんなことすら考えなくなっているのではないか」と問いかけ、林頭も「間違ったことに流されているのにも気が付かず、成り行き任せになっているのかも」と考察していた。
これから日本で一番大変になって来るのは、おそらく日野市議会議員の池田としえさんが訴えているデータセンター問題だろう。日本に建てられているデータセンターは、エネルギー消費量、排熱量、対策も未公表、地下への影響評価も不明なのにも関わらず、アセスメントの穴をついて日本中に建設されている。設置され電磁波を発生させる発電機も問題で、電磁波に関しては、電磁波問題市民研究会や増川いづみ先生も、ずっと前から人体に多大な悪影響を及ぼすと警鐘を鳴らしている。
イラン戦争で破壊されたように、戦争が起こると施設自体が狙われる可能性があるのに加え、データセンターは一度火災が発生すると、施設の資材として使われているウレタンから、5秒で人を死に至らしめる青酸ガスが発生する。すでに三井不動産の土地に建てられたデータセンターで、稼働前に爆発のような火災事故が起き、死者5名、重傷者含め43名の負傷者が出ている。
日本政府はAmazonのデータセンターに国民の個人情報を集め”活用”しようとしている。政府と癒着した外資のためにパランティアらAI軍事企業が、日本人の個人情報を利用しようというのである。土地を提供しているのは三井不動産だ。ビル・ゲイツらが推進するCO2削減を、日本で主導しているのが三井不動産である。
AIデータセンターは10倍の電力を消費するが、実は何の収益性も無い。しかもガバメントクラウドといって地方自治体で個別に管理してきた国民の個人情報を一元化することで、安くなるどころか外資に払うコストが上がっているという。その外資系企業が日本の電力インフラを勝手に利用する一方で、過剰な電力消費や環境破壊を起こしている。なぜ多国籍企業のために日本国民が原発再稼働のリスクまで抱えなくてはならないというのか。
データセンター建設を成り行き任せにしてはいけない。電気代が上がり水が枯渇するデータセンターは迷惑施設だとして、海外ではすでに反対運動が多発している。この構造に多くの人が気づいて、破壊を食い止めなければ、先生の愛した日本が死んでしまう。風土が死に、文化が死に絶えてしまう。
ジェイソンさんらが集めて整理してくれた膨大な資料によって炙りだされた犯罪の歴史を、どう伝えていったらいいだろうか。単なる想像なのだが、ぼくは新情報が出る度更新していけるサイトを作るのが一番の優先事項のように感じた。サイトなら読み手が自分のリズムで部分と全体を交互に参照できるように思う。講演の資料一つ一つは、かなり見やすい案内になっていて、特にタイムラインで流れを示したものが良かった。あれをベースにして(横より縦になるといいが)、人物や事件やアイテムなど、重要項目にカーソルを合わせるとウィキペディアのように簡易的な説明が出て、さらにそれをクリックすると新しいタブで詳細がわかるようなリンク構造にするといいのではないだろうか。深田さん個人の番組や政経プラットフォームなどの他、協力できる人々とリンクさせていくのも良さそうだ。
ぼくは浙江財閥は、オードリー・タンのような人間が出てきて、台湾本土で活動がしにくくなったため、代わりに日本への支配を強めているのではないかという気もしている。台湾のデジタル民主主義化(ポリス化)の代わりに、日本がデジタル監視社会化(オイコス化)=植民地化されようとしているようだ。しかしオードリー・タンも、日本(笹川)財団の人々も、エプスタインらがしてきた人身売買臓器売買や『BIG PLOT』が明らかにしたような歴史を知らない、あるいは単なる陰謀論と思っているために、浙江財閥や統一教会の広告塔やATM窓口として利用されているのではないだろうか。
だから、またこれも単なる想像なのだが、ぼくは深田さんやジェイソンさんのような道理をもった人が「vTaiwan」「Join(公共政策網絡參與平台)」「Pol.is(ポリス)」を日本版にしなおして、普及させることができはしないだろうかとイメージしている。みんなが軍産企業の息のかかった既存のSNSから、そちらへ引っ越してしまえばいいのではないかと考えているのだ。
日本にも自民=統一教会のようなカルト売国政党に左右されずに内閣支持率や選挙の投票率など民意を示せるような場が欲しい。国家が国民を虐待するなら、虐待されている国民みんなで、人間以外の生き物や自然とも調和していける日本、断然魅力的でおもしろい別の日本を作りたい。
林頭によると、セイゴオ先生の『擬』にはカリ・ギリ・ドーリという章があるのだが、「道理」のルーツには、まず孔子の儒教では五常(仁義礼智信)があり、続く孟子は五倫を持ち出し、これらを実現するのが王道であり、そこに本来の「道理」があると考えていた。
ところが現代は「道理」ではなく「合理」ばかりが重視され、「今の世の理屈に合わせる」のが合理的で、「今の世の理屈に合わない」ものは非合理的だと見なされるようになってしまった。例えば青色切符のような、仮の世の小さな道理に合わせることが至上命題になってしまっているために、人の命が危険にさらされるという事態にまで陥っている。政府の作った悪法に振り回されて、警察や官僚の下部組織と民間人が対立させられているようだ。政府が国民を弾圧するための下準備として警察を飼い慣らし、人としての道理を麻痺させているようである。
穂積さんの言うように、『擬』はたった一つの真実があるのではなく、あくまで世は擬、仮なのだ、変わり続けていくからこそ、ある種のスポットを見出し続けていくことが大切なのだと伝えている。そして慈円も「道理」には人が生きていくために必要な重い道理と、そうでもない軽い道理があると考えていた。現場にいる一人一人の「道理を見極める力」が試されている。
風が風呼んでうねるよ青田波





