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方丈記

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


千夜千冊42夜・歴象篇、鴨長明の『方丈記』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 ここ最近何度か、昔描いていたあるマンガに関する夢を見た。そういうとき、ぼくはこの夢には一体どういう意味があるのだろうと考えるのだ。そのうち日常の中に、その夢とのつながりが浮上してきて、ああ、これは「こういうことを言葉にしなさい」ということなのだろうと思う。

 

 今夜のお話は、ぼくも中学校くらいで暗唱させられた「行く川の流れは絶えずして…」の『方丈記』である。千夜千冊では、鴨長明がどのような経緯で『方丈記』を書くに至ったかが詳細に語られている。

 

 鴨長明が挫折者だったなんて知らなかった。ぼくは長明のようなエリートの家ではなく、ごく普通のサラリーマンの家の子供で、親父が死んだのは一年前なので随分境遇が違うが、ぼくも昔はマンガ家になって成功し、その利益で自然を守りたいという理想があり、何度かは雑誌社の担当者の方々のお世話になったものの、プロのマンガ家にはなれなかったので、敗者とか負け組といった意味では、長明と似たようなところがある。

 

 千夜やオツ千によると、鴨長明は親戚に職(地位)を奪われ、歌を作るも定家から無視され続けたことで、ある種の復讐心を抱いていたらしい。この話で思い出したのが、昔描いていた『AVENGER』というマンガである。

 アベンジャーというと、みんな今はハリウッドアメコミ映画の『アベンジャーズ』を思い浮かべるのだろう。ぼくのはあんな超人活劇ではなく、ただの”なんちゃって西部劇”だ。最初に設定を思い描いたのは高校生の頃で、なんで『AVENGER』というタイトルにしたのか、はっきりとは覚えていないが、たしか英語の「revenge」と「avenge」には違いがあって、revengeには個人的な恨みつらみを復讐によって晴らすという意味合いがあるが、avengeは大義のための戦いとか、敵討ちといった意味が強くなるので、その違いや意味同士の間に生じる人間模様みたいなものをテーマにしようと考えていたのだろう。

 

 今夜のお話の主人公である鴨長明が生きたのは、源平の争乱から武者の世へと至る時代の転形期だった。定家によって新古今時代が幕を開け、貴族文芸界は華やかだったが、民衆は戦乱と災害と飢饉で苦しんでいた。千夜千冊が書かれた2000年頃も今も戦乱は続き、格差は広がる一方だ。加えて昨今の災害はその土地の資源を狙って意図的に起こされ、重要な問題や民衆の苦しみは隠されたり、誤魔化されたりしている。鴨長明のように掘り返して残す人がいなければ、この危機も無視されたままになってしまうのではなかろうかと思う。

 

 そのマンガでぼくの描いた主人公は、ある復讐心を抱えたまま「AVENGER」になっていくのだけど、もしかしたら鴨長明も、世の中を射るジャーナリスティックな眼差しによって、自分が認められなかったというrevengeの気持ちを、avengeにしていったのかもしれない。

 

 ぼく自身もあの頃は、自分のような人間は、ネタをパクられいいように使われるだけで、プロのマンガ家には決してなれないのだと絶望的な気持ちになって引きこもっていた。それでもどうしてもマンガを描き、誰かに見てほしかったので『AVENGER』を無料でネットに公開したのだった。今ではそんなこともあったなと懐かしく思う。

 その頃は今のように投稿サイトなども充実していなかったし、手軽なHP作成ツールもなかったから、HPをつくり無料で公開するための費用を稼ぐために働いた。それ以前にしていたバイトで辛酸を嘗め、対人恐怖症気味になり、一人でもできる仕事がしたいと考え、トイレ掃除をすることにした。とある公共施設では、便器を磨いているとき、スーツを着た職員に、いきなり小便をかけられたりした。ぼくはそうした経験によって、この世には職業差別というものがあり、多くの人は年収の額がその人間の価値であり、命の値段だと思い込んでいるのだということを知った。

 

 当時は毎日が苦しくて、結局『AVENGER』はわずか数話で止めてしまった。いつか描きたいと思ったまま、その後3・11があり、『侍JOTO』を描き始め、セイゴオ先生と出会い、イシス編集学校に入ったことで、ぼくの人生はあの頃予想していた未来とはかなり違うものになった。

 

 ついに多読アレゴリアが始まって、オツ千に、14離の仲間でもある、ちひろ姫が登場した。”姫”といってもちひろさんは、いつもでっかいカメラでみんなを激写し、バイクに乗るし野鍛冶もする、ぼくのようなインドアからすると、超ワイルド遁世派エディターなのである。


 今夜のお話で、セイゴオ先生は「数寄の遁世」とか「世を捨てる」という方法があるのだということを伝えようとされている。ぼくなりに解釈するならば、それは、金持ちかどうかで人を差別するような世の中や資本主義や共産主義(国家資本主義)に、媚びない生き方があるということだ。

 たとえマンガ家として成功し、いくら金を稼いだって誰も、この日本の地獄のような状況、目を覆いたくなるような自然破壊を止めることは出来ない。成功して安定した地位を手に入れた人間はみんな、リスクを冒してまでそんなことをしようとしない。むしろ金儲けと、今の地位に安住することだけが人生の目的になっていく。だけど、ぼくが出会った大人たちの中で、先生は違った。歴史や先人たちに学び、周囲とのバランスを取りながら、自分にできるギリギリの闘いをしてきたのだ。


 「離」を受講したことで、ぼくも色々なことを知りながら、一方で余計なものがどんどん梳かれていった。生きるために働きながらでも、とことん好きなようにマンガを描いていいのだと実感できるようになり、自由になっていった気がする。

 

 今も『AVENGER』を描きたい気持ちが無いわけではないが、仕事やイシスの活動をしながらマンガを『侍JOTO』のように自由に描くとなると、おそらく10年以上はかかるだろうから、残りの人生の時間を考えると、もう最期に描く予定のファンタジーを描く時期なのではないか…と今のところは思っている。

 

 丁度年末の大掃除に向けて片付けをしていたら、昔のネームなどが出てきたものだから、色々と思い出しながら、ぼくは今まで、最初から悟りきった人間のように見えていた鴨長明が、実は自分の苦い経験に意味を見出そうと、ずっともがき続けたことに共感した。

 今セイゴオ先生の『編集宣言』を読んでいるのだが、編集学校の校長となってからの先生とは違う考え方や言い方が書いてあって興味深い。先生も、もがいたり抗ったり失敗したり、悪戦苦闘七転八倒しながら、あの松岡正剛になっていったのだ。

 

 凩に飛べるこの身ぞ仮の宿

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