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千夜千冊0419夜・意表篇、清少納言の『枕草子』を読んで思い浮かんだことを書いています。
アメリカの選挙でトランプが勝つことは、ぼくの周囲ではほとんどの人が予測済みだった。ぼくはむしろ日本の選挙結果のほうが少し意外だった。まあ情報(投票結果)の操作が出来ないくらい、つまりはもうマスコミが誤魔化せないくらい、国民の、自民党政府や官僚に対する怒りが高まっているということだろう。だいぶ色々なことが明らかになってきてはいるが、ワクチン、マイナンバー、気象操作、食品添加物や農薬などの食の問題、移民問題に格差と貧困、中東情勢、ウクライナ戦争など、トピックによって人それぞれ、情報の浸透具合や解釈の仕方にはムラが(良い意味では幅が)あるようだ。これからは一人ひとりが自分の専門だけでなく、多様な分野の情報を自分で収集し、分析し、動いていくために、ますます世の中に編集工学が必要になってくるのではなかろうかと思う。
今夜のお話では、セイゴオ先生が『枕草子』に躍動する編集術を、清少納言の「好み」の「取り合わせ」による美の遊撃と知の遊動を絶賛している。この千夜が書かれたのは2001年のちょうど今の季節(11月)、先生が千夜千冊を毎日書くという編集稽古をご自身に課していた頃だ。
先生は『枕草子』そのものの魅力だけでなく、清少納言の感染教育と編集学校の取り組みとを重ねて紹介してくださっているようだ。
『枕草子』というと、ぼくも学生の時、冒頭の一段「春はあけぼの…」を暗唱させられた記憶があるし、たしかに判で押したように『枕』は「をかし」の文学で、『源氏』は「あはれ」の文学と習った憶えがある。もしイシス編集学校の守の稽古「21世紀枕草子」が無かったら、ぼくの『枕』の記憶は「春はあけぼの…」だけになってしまっていただろう。
だから今夜の先生の、「をかし」にはいろいろの襞があり、清少納言がその襞をひろげていったという新しい見方には、目の覚めるような思いがした。
このごろそういった「をかしさ」を感じる瞬間が、ぼくらにはどれくらいあるだろうか。
ぼくは、なみなみと甕に雨水が溜まって、澄んだ水面に散らしたお麩を目がけ目高が浮いてくるのがいとをかし…かったりする。
久しぶりに聞いた「オツ千」の、リアルとヴァーチャルを切り口にした『源氏』と『枕』の比較も「をかし」かった。「枕」が「たまくら」であり「たましひ」へ至る部分は、極め付きの必聴ものだと思う。
ぼくは好き嫌いがはっきりしている方だろうか。そういうところもある気もするが、自分の着る服やインテリアなんかのセンスについてはかなり無頓着だ。ただ、今の季節、母が畑で育てた小菊を大ぶりの花器にざっくりと活け、朝夕の仏間にぽつぽつと黄色い鞠のような花を灯しているようなとき、たよりない細さの幹の百日紅に、目白の夫婦がやってきて、蜜柑を刺した枝を揺らすような場面に、小さきものにうつくしさを感じている。
ぼくはやっと新しい仕事が見つかったところである。手続きに戸惑ったり、ノルマと時間制限に心拍数が上がったり、緊張してパソコンの文字を打つ手が震えたり、焦ってミスをしたりしているが、なんとかまだ生きている。せっかく家族が安心し、Fさんの奥さんも喜んでくれているので、なんとか続けていきたい。
共読ナビゲーションをしていてよかったと思う。時々、学生たちがひょっとしてぼくのマンガを読んでいるのかもしれないと思うことがある。読書を通じ学生たちと対話をすることで、単にぼくらが彼らをナビゲートしているというのではなく、ぼく自身も、少しは人の役に立っているという感覚があり、救われている。
このブログを書くことも、無数の誰かとの対話であり、同時にこれはぼくにとっての編集稽古のようなものだ。
職探しをしている間に、随分「オツ千」との差が開いてしまったが、先生が命懸けでしてきた千夜千冊と、それを追いかけるオツ千に、追いつくためだけに急ぎたくはないので、自分なりの速度で追いかけていこうと思う。イシスにはそうした心意気を買って「遅れ馳せでも、馳せ参じることが大事なのだ」と言ってくれる文化がある。セイゴオ先生がつくった情報の、情けの襞である。この辛い世の中で、ぼくにもそういう場所があることが、なんとありがたいことかと思う。
透明の露の光り合う庭の先