
千夜千冊1599夜・読相篇、近藤信義さんの『枕詞論』を読んで思い浮かんだことを書いています。
ぼくは今とても幸せだ。ひとつには転職して、仕事が楽しいと感じながら働けていることが影響していると思う。今まで学んだことを活かせて、誰かのためにもなることができる。この困難な時代の中で、こんな仕事に就けることはめったとないのではないだろうか。今の会社に感謝し、今年もがんばって絵を描いていこう。
今夜のお話は「枕詞とは何か」である。セイゴオ先生曰く、枕詞とは単に作詞のためにまとめられたキーワードではなく、古代人の生命力と観念力の根幹にふれる「日本という方法」の秘密であるらしい。
この千夜は正月の第二弾に書かれた。林頭も言っておられたが、その年の最初の本などは、何か気分が澄んでくるようなものを読みたくなるものだ。先生もそんな気持で『枕詞論』を取り上げたのだろうか。
丁度14離企画会議でも、1月末の今回は新年最初ということで、メンバーみんなで一人づつこの時期に合うような和歌を選び、選んだワケを発表し合おうということになっていた。なんだか千夜千冊と内容がかぶっていて面白い。
穂積さんが言っていたように、この千夜が書かれた前年、競技かるたをテーマにした有名マンガが映画化されて、ヒットした影響もあるのかもしれないが、ぼくは今回あらためて、先生がずっと前から枕詞というものを、ぼくが考えているよりかなり重視しておられたのだということを知った。
千夜にはこのように書いてある。
― けれども、本書を読んだから「枕詞という方法日本」が解けるわけではなかった。それでもぼくには1つの峠を越えるきっかけになったので、本書は大きな足場のひとつとなったのだ。
今夜のお話は、先生が「枕詞という方法日本」を読み解こうという、先生ご自身の編集稽古を兼ねてまとめられており、ぼくらにもその一端をお裾分けしてくださっているような感じがする。
企画会議では、Oさんがなんと帰宅途中ガソリンスタンドに寄りながら、藤原定家が本歌取りばかりで作った
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空
を、今年の自分の新たなテーマ「他力エンジン」にマッチしているといということで、紹介してくれた。「編集方法で撰ぶ」というのがいかにもOさんらしい。物語講座が佳境に入ったというH師範代は
ときはなる 松のみどりも 春くれば いまひとしほの 色まさりけり 源宗于
天くだる 現人神の おひあひを 思へば久し 住吉の松 安法法師
など、お目出たい松や、故郷の住吉神社にちなんだ歌を撰んでいた。もしかしたらセイゴオ先生(松岡校長)の「松」にも掛けておられたのかもしれない。同じく物語講座の編集女将も、1月が先生の誕生月ということから、先生の月数寄や「玄月」という俳号にちなんで
ゆくすゑは 空もひとつの むさし野に 草の原より いづる月かげ 藤原良経
むばたまの 夜のみふれる しらゆきは てるつきがけの つもるなりけり 詠み人知らず
など、「月」を詠んだ歌を紹介してくれた。「多読アレゴリア」の「群島ククムイ」で奮闘中のアフロール師範代は、みんなが知っている
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで と、
曙の 光とともに 春来ぬと 花の心を 人や知るらむ 藤原家隆
など、季節を先取りする歌を撰んでくれた。みんなの撰んだ歌を読んでくれたノズミンは、有名な額田王が詠んだとされる
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
が、宝塚の演目になったことがあるのだと教えてくれた。ぼくは古代の人々が、雪がたくさん降るのを豊作の瑞祥と思っていたというエピソードが面白いなと感じて撰んだ
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 大伴家持
などを紹介した。
ぼくは何回かこの千夜を読み、14離企画会議のこともあって、最近たまたま何冊か和歌関連の本を読んだが、枕詞個々の意味について知るには、枕詞についての本を読まなければならないようだ。例えば「あしひきの」という枕詞には、「なだらかな山」とか「山のすそ野ではいろいろなものが採れる=いろいろなものを与えてくれる山」という意味の他に、「山を行き来するのに、足を引きずって歩く」とか「山の神の足の欠陥、片足の山の神のこと」を表しているのだという説がある。片足の神については先生の『フラジャイル』にも詳しい。
他の枕詞にもこのように、かくれた意味があるのかなと思うとワクワクしてくるが、やはりそれらを一つ一つ解読していくには、本編に紹介されているような『枕詞辞典』(同成社)や『枕詞便覧』(早稲田出版)を読んでいく必要があるのか。
しかし今夜のお話でぼくは、枕詞には、ある行ったことも無い場所について、映像や音などのイメージを持って想像させる力があるのだということが分かった。14離の仲間とも、1000年以上も前の人々が、これほど自然や人の心に対する繊細な感性を持っていて、それを歌として残してくれたことで、現代を生きるぼくたちもその景色を思い描くことができるとは、凄いことだよねという話になった。
枕詞を使う時、人はそのときの自分の想像力をフル稼働させ、記憶の中にある似たものを使って、自分の中に新たな面影を分出しているのだ。
そんなふうに考えていくうちに、ぼくは先生の残してくださった数々の言葉は、枕詞のようになっているのではなかろうかという気がしてきた。
ある概念について、全く違う意見に両方頷けるということがある。
例えば去年の企画会議で、ぼくはOさんから「文化する」とは、何かを言語化し、相手が理解することによって、相手の中でそれがリアルになるということであり、「文明」とはその「文化」をシステム化したものなのではないかという推理を聞いたとき、まさにそう!というような衝撃と共感が起こった。
しかし最近中西進さんの本を読んで、「文明」は生活手段における都市化(civilization)だから、むしろ自然と対抗し、それを克服し、人工的に構築する一方、「文化」(culture)は個々人の心の世界であるところの教養の総体だから、風土に馴致するものでこそあれ、風土を破壊したり、克服したりするものではないというお話も、まったくその通りだと思った。
中西さんの思うような「文化」を、Oさんの考えるような「文化する」力で、ぼくたちが本当に叶えたい「文明」にしていくにはどうしたらいいだろうか。政治・経済も含めた、様々な分野の人々と連帯していくにはどうしたらいいだろう。
ぼくは最近、自然農家のソーヤンさんのYouTubeで出会った、桐村里紗さんのしているような活動がヒントになるのではなかろうかと思った。ぼくからすると、この人を中心に行われている活動は、SDGs的な上からのプラネタリーヘルスというよりも、相互自然発生的な「風土再生文化編集」といった感じがする。
ともかく、同じ「文化」と「文明」の関係でも、延長線上にあるものになる場合もあれば、対概念になる場合もあり、しかもそのどちらの見方にも、充分なエディトリアリティがある場合もあるのだと発見でき、ぼくは嬉しかった。
沢山の本を読んできた先生には、こうした発見がしょっちゅうあったのではなかろうか。先生の言葉は、単に抽象度が高いため論理的に限定しにくいというのではなく、言葉を受け取った人がどんな背景を持って、どんな文脈に立つかによって「響き方」が変わっていったのだと思う。
先生の言葉はいつも、その人を編集的自由へと導いてくださっている。ひょっとしたら先生は常に、あえてぼくらの編集が終わらないようなに、ぼくらがいつでもどこからでもどのようにも編集可能になっていくような言葉をかけていたのかもしれない。
たそがれの 薄板界の 裂け目より ファンタシウムの 淡雪ぞ降る