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神秘哲学

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 久しぶりにマンガを投稿したら、コメントをいただきとても嬉しかったです。ありがとうございます。千夜千冊1773夜、井筒俊彦さんの『神秘哲学』を読んで思い浮かんだことを書いています。



 人間の感情は、一体どこからやってくるんだろう。ぼくも今まで随分注文した覚えのない気持ちにふりまわされてきたものだ。

古今東西の哲人や詩人にも「心」は大問題だった。仮に心や魂が「意識」で出来ているとしても、その意識の正体やはたらきは科学にもまだわかっていない。哲学や宗教も繰り返しそのことについての思索をくりかえしてきたが、「何か」が欠けてきた。

 今夜のお話の本の著者・井筒俊彦さんは、それこそが「神秘」ではないかとずっと思ってきた。

 井筒さんは晩年、如来蔵(にょらいぞう)を説き、大乗起信論に到った。セイゴオ先生はこのことを「よほどのこと」と感じられたらしい。

 如来蔵は、仏教が長年追跡していた信仰意識の究極の本質を、東洋思想が見てきたかを表現したものだ。井筒さんは『意識の形而上学:「大乗起信論」の哲学』に「衆生の心がそのまま大乗である」「そこにはアーラヤ識としての本覚が動いている」と書いた。

 ぼくが今夜のお話を、勝手にぼくのマンガ「侍JOTO」の第37話「武闘」に照らし合わせて考えると、これは「みんなの心がそのまま大乗である」「そこには意識を越えた本覚が動いている」ということだ。

 如来蔵(tathagata-garbha)というサンスクリットの原語は、「如来は胎児として宿している」という意味になる。本覚は本来の覚性(かくしょう)のことである。

アーラヤ識(阿頼耶識)は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・マナ識(末那識)のさらに奥にひそむ第八番目の深層意識のことで、「意識状態を脱したもの」なのだとされている。

 3つのキーワードを合わせ、言い換えてみると「本当は誰もが最初から如来を胎児として、意識を越えた心の奥底に蔵(やど)している」ということではないかと思う。

 井筒さんはなぜ大乗起信がアーラヤ識や本覚に達するのかを考えようとした。ぼくはそんなに深く考えずに37話を描いた気がするので、先生が「よほどのこと」などと仰ると、畏れ多いような、不思議な気持ちがする。

 先生は初期の井筒さんが著した『神秘哲学』に、ギリシア哲学をアーラヤ識や本覚のように読もうという狙いがあったのではないかと推測した。

 日本では、井筒俊彦さんはイスラム哲学や東洋哲学の研究者として知られてきた。しかし、井筒さんは初期のギリシア哲学の解釈において探求の原点を明示していた。

 ふつうギリシア哲学というえば、イデアにもとづく理念哲学や自然学を下敷きにした形而上学だが、井筒さん「理念を傷つけるもの」や「魂の体験」がギリシア哲学のそこかしこにあっただろうことに思いをめぐらし、そのことをもっと深く思索すべきだと考えたのだ。ちょっと紫戸渋久郎と天ちゃんの闘いのことのようだ。

 またふつう、ギリシア哲学の神秘主義というと、みな新プラトン主義の発展系を思い浮かべるのだが、井筒さんはすでにミレトス学派の台頭のなかに自然神秘主義が揺れ動いていたのだとして「哲学は、いわば真理を聖体として成立するところの高次の密儀宗教なのである」と書いた。聖体が日本人にとってはご神体のようなものだとすると、かなり画期的でおもしろい。

 当時もやはりこうした井筒さんの発想はオカルティックなものとしてまったく評価されかった。だが、そう思ってきた者たちのほうがずっと見方が狭かったのである。

 若いころからギリシア語を学んで来た井筒さんは、一様でないギリシア哲学の言語思考に、二重多重の「意味の分節」がひそんでいることに注目した。

ギリシア哲学は着々と宇宙(コスモス)、理念(イデア)、魂(プシュケー)、運動(デュミナス)、質料(ヒューレ)、形相(エイドス)などを定義づけながら、自然学(フィジックス)と形而上学(メタフィジックス)を構築する。しかし井筒さんは、そこに二重多重の分節を残響させていたはずの「神秘思考」が欠けすぎていること、かつてはそうした「意味の神秘」との出会いによって思索が飛躍したり深化していたことに、もっと注目すべきではないかと考えた。

「意味の神秘」といえば、ぼくはマンガを描いていると、時々意図せずして物語が様々なこととリンクしていくことがあり、これを「天使さんのいたずら」と呼んでいる。今夜は「これを書いたのはセイゴオ先生の熱心な読者か、イシス関係者なのではなかろうか」…と思えるような記事が見つかったので、先生のご要望(?)に応えて、「見立て」解明編集してみようと思う。

37話はネームのときから、天ちゃんの技の名は星関連にしようと思っていた。江戸時代に「彗星」という言葉は無かったので、「箒星(ほうきぼし)」になった。一方渋久郎の技「赤楝蛇(ヤマカガシ)」とは蛇のことだ。歳時記で調べるとヤマカガシの「山」はあえて「赤」と表記されている。

「ヤマカガシ」はかなり強い毒をもった蛇だ。元は「ヤマカガチ」であったといわれ、漢字で書くと山楝蛇。あれ、赤楝蛇ではないの?はてどういうことなのかと思った。

 日本語の「チ」「ち」には、霊力や霊力の強いもののをあらわす意味がある。つまり蛇の古語の一つである「みづち」や、神話で登場する三輪山の神・大物主神の別名・大己貴命(おおなむちのみこと)、「八岐大蛇(やまたのおろち)」などの「ち」に通じ、それらの神々の正体は、霊力の強い、歳を経た大蛇なのだと言われている。

 二重多重の分節というと「カガ」もまた、ヘビの意味を表す古語で、「鏡」や「輝く」の語源でもある。またホオズキの赤く熟した実を赤加賀智(あかかがち)といい、ヤマタノオロチも「その目は赤加賀智(あかかがち)の如くにして、身一つに八頭八尾あり」と描写されている。国津神で、正体はヘビであるといわれる巨人・猿田彦神も、日本書紀での登場シーンでは「眼は八咫鏡(やたのかがみ)のごとくして、絶然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)に似れり」と描かれ、鏡やホオズキに例えられている。「赤楝蛇(ヤマカガシ)」の「赤」はホオズキの実の赤だったのだ。

 「侍JOTO」はアップロードするごとにFacebookのカバーを変更している。今回は「ホオズキ市」をモチーフに選んでいたので、ぼくはこの記事を発見して「今回の天使さんのいたずらも手が込んでいるなぁ」と思ったのだが、これだけではなかった。

 天孫降臨に先立ち、葦原中国(日本列島)にたくさん暮していた先住の神々のうち、最後まで抵抗したとされる星の神・天津甕星(あまつみかほし)の別名は星神香香背男(ほしのかがせお)で、やはりヘビの別名である「カガ」がつく。この香香背男は案山子(かかし)のことでもあり、田を守る案山子はヘビの化身でもあるのだ。

 ここで天ちゃんの「星」と渋久郎の「蛇」がつながった。天孫降臨した大和王権は、彼らの支配に抗った人々を「鬼」として蔑み打ち倒してきた。土地を奪いとるために殺してきたということだ。鬼と星と蛇は日本の昏い歴史とも重なっている。ホオズキは漢字で「鬼灯」とも「酸漿」とも書く。

 遠い神話の時代に信仰されてきた古い神々は大蛇であり、川や沼、湖などの神であるとともに農耕・生殖の神でもあった。今も神社や聖域にかけられる注連縄はヘビをかたどったもので、ヘビの呪力と霊力にあやかると同時に、天孫降臨以前の日本在来の神々は蛇であったということを暗示しているのだ。

 「ヤマカガシ」とは、山に住むカガ・チ=大蛇という意味になる。山と言っても高山ではなく、田の神が春から秋にかけて里に下りてきて、冬には帰ってゆく往還の地である「はやま(端山、葉山)」といわれる里山のことだ。ヤマカガシは、山の神、田の神の化身としても敬われてきた。

 蛇の目傘などの「蛇の目」はカガ・メだ。一文字違いでカカ・ミ=鏡となる。この赤い●、ぼくらはよく見知っている。ここから先の「意味の神秘」は、みんながそれぞれ感じた方がいいのではないだろうかと思う。

 井筒さんはきっと、ギリシア哲学をコスモスによる容器性や秩序性の中だけで解釈したくなかったのだ。ときにコスモス(秩序)を脅かすカオス(混沌)の動向に接触した意識こそが、ギリシア哲学が今日にもたらしてきた原動力だった。「ディオニソス的アンチコスモス」のような逸脱と狂乱と深化が、実はギリシア哲学の底辺に渦巻く神秘力を逆上させ、のちのプロティノスらの神秘哲学(新プラトン主義)を用意したのではないかとみなしたのだった。

 井筒さんの経歴の中でとくに興味深いのがエラノス会議のお話である。ユングやジョセフ・キャンベルや鈴木大拙と会って何度も会い、交し合って思索を深められたようだ。ぼくも先日丁度〔離〕を退院した学衆〔離学衆〕が集う「声文会」に参加したところ、とても愉快だった。ここでは文巻というOSの機能によって方向をもちながら(お酒は入らないので狂乱はないけれど)逸脱が起き、他者が介在することによって表層の個人的「意味」から離れられるのではないかと思う。

 若いころから語学の天才だった井筒さんには、言葉は表層的にはどのようにも入れ替え可能なものだと感じられていたから、むしろ古代語や宗教言語や詩歌文芸の言葉づかいに隠れている分節力や意味に着目するべきだという考え方があった。

 セイゴオ先生は数々の井筒さんの著作集の中でも、第9巻「東洋哲学」が以前から気になってきた。とくに「スーフィズムと言語哲学」という論文には、井筒神秘哲学の真骨頂と編集工学的な言葉の掴まえ方が交差しているというのだ。

────元来、アラビア語では「魂」(ナッス)は「息吹き」(ナファス)と密接な意味論的なつながりをもつ。…すなわち、観想者の内的な状態が、神の「氣息」と合致して、変質していくのだ。

「創造不断」より

 イスラム宗教社会では一定の修行して得られる意識のことをバシーラという。バシーラは一般のアラビア語では「視覚」を意味するが、スーフィズムの述語としては「精神的な目」とか「内観」を意味し、当のスーフィーたちもうまく説明できないらしい。こうした言葉に出来ない感覚をイスラム哲学では、アリストテレス型の知をファルサファと呼ぶのに対して、イルファーンあるいはヒクマットと言う。実はヒクマットこそが叡知(wisdom)のことであり、大乗仏教のプラジュニャー(般若=智慧)にあたる。

 バシーラは、根源の意識にかかわるロゴスを越えたものなのだ。このような根源の意識は、実際の修行体験や神秘体験から迸(ほとばし)る。

 ペルシア生まれのスーフィー、9世紀のバグダードに活躍したハッラージは「我」の本質について、神秘主義の体験の中では私の「我」はたしかに「我」にはちがいないけれど、それが「汝」にあまりに近く引き寄せられているので、「汝の我」なのか「我の我」なのかはわからなくなると言い残した。

 これは、仏教でいえば『般若心経』の「色即是空・空即是色」のようなもので、「空」と「色」とを分けないで同時に見ているということにあたる。井筒さんは、そんな風に見ることによって「何かがわかる」のではなく、「何かを多義的なままに捉えることができる」のだと言った。理性の領域にとどまるコトバに対して、理性の向こう側の領域に躍動するコトバこそが、神秘の多義性を語るのだ。

バシーラに鬼火のごとき赤楝蛇


星踊るアンチコスモの夏の空

〔離想郷〕はエピクロスの園のような場なのではないか。こんな場を二重多重に増やしていくことが必要だ。そこに吹く風は、スーフィーによって、井筒俊彦さんによって、セイゴオ先生によって、うんと縦横自在に感知されてきたのである。

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