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花鳥の使

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 千夜千冊1089夜・意表篇、尼崎彬さんの『花鳥の使』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 まさか今年も先生から「よいお年を!」のご挨拶をいただけるとは思わず、嬉しかった。ぼくはエディションの『面影日本』を一夜づつ順番に追いかけていて、前のブログが書き終わるまでは、次の「オツ千」も聴かなかったりするので、そのお蔭でタイミングが合ったのかもしれない。

 

 今回のオツ千は「macaroom」というアーティストが紹介されていた。ぼくはテクノ音楽はあまり好きではないのだが、このグループの曲はテルミンを聴いているような不思議な浮遊感がある。今夜のお話の最後に紹介されている、田中泯さんの《透体脱落》という言葉をJ-popに変換したら、こんなイメージになりそうだぁと感じた。

 

 先日の14離企画会議は、Oさんが年末スペシャル感満載の講義をしてくれて、ぼくもみんなも、イシス編集学校ではお馴染みの「概念の抜き型」についての理解がかなり更新された。芭蕉の「虚にいて実を行うべし」を、箱の中には何があるゲーム的に考えてみる、という見立ても面白かったし、「真・善・美」を方法日本流に解釈したOさんの新理論は、それ自体がかなり美しい。編集学校で時々、師範や学匠らが「物事を立体的に見る」という言い方をされていたけど、ぼくは守の師範代をしていたときは、その意味が分かっていなかったのだと思う。Oさんの解説は、その立体感がある図解になっていて、お蔭で「こういうことだったのか」と発見できた。ぼくもこの新理論が、日本のデザインや美術の教科書で採用されたらいいのになぁと思う。

 

 企画のメインテーマはセイゴオ先生の『編集宣言 エディトリアル・マニュフェスト』だ。この本は『遊』時代の先生の編集思想が凝縮されている、とても読みごたえのあるお宝本だと思う。

 Hさんは「本」のつく言葉の多さに驚いたようで、Sさんは若き日の先生や、杉浦浩平さんのお姿に惚れぼれとしていた。やっぱり自分とつながるキーワードに注意のカーソルが向くのか、ぼくは『サブカルズ』のエディションを読んだとき記憶に残った「アドレッサンス」という言葉の近くにノヴァーリスの名言があり、ぼくもずっと自分にとっての聖書のようなマンガを描きたいと思っていたことを思い出したりした。p25の「遊図」に感動して、模写しようとして苦戦していると言うと、みなさんが色々と方法を考えてくれて楽しかった。

 

 今夜のお話は、心のあわれをあらわす「あやの詞」についての和歌論から始まり、花鳥の使いの意味、日本人にとっての「歌とは何か」を読み解いてゆく。

 

 この本が書かれた1983年は、東京ディズニーランドが開園し、ゾンビダンスやムーンウォークで有名なマイケル・ジャクソンがデビュー。この頃から世の中において、歌はパレードやミュージックビデオなど、総合エンターテインメントの一要素として、資本主義を盛り立てる道具となっていった。それ以前は、歌自体が新たな世界観を作り、世の中を変えていく力を持っていたが、やがて与えられた目的と企画に沿って、欲望を喚起する歌が作られることがよしとされるようになっていったのではなかろうかと思う。

 

 そんな時代に著者はどういった思いでこの本を書いたのか、オツ千では終盤に尼崎さんの言葉を紹介している。本来日本人にとって、歌とは心情を回復させる方法だった。ぼくたちは心情によって世界の実相に向かって美を見出してきたのだし、他者の魂に向かい、そこで互いの心情に触れ合うことで生きてきたはずなのだ。それがいつの間にか、人為的な常識によって忘れ去られてきてしまった。しかし日本人にとっての歌とは、本当の生命を取り戻す道なのだという話だった。

 

 自公政権は、アメリカ民主党と同じように、移民を大量に入れることで、日本を壊滅的な状態に追い込むことにしたようだ。この国を守るには、今の売国政治や法律、警察や検察財務省や厚生省をはじめとする省庁、マスコミに関わる人事をまるごと変えなければどうにもならないように思うが、より多くの人々が欺瞞に気づくためには、倫理的なものの見方ができるようになると同時に、広く深く察知するための感覚を研ぎ澄まし、心情を豊かにしていくとよいのだろう。

 

 心情とは、インプットにおいてもアウトプットにおいても触媒となって、人間というメディア同士をつないでいく呼び水であるようだ。

 ぼくは21日の18時、「御時」に参加しようと、さとうみつろうさんの言っていたように静かな場所で「自分の本当にしたいことは何だろう」と想像してみた。やりたいことは既に決まっているので、そのことが出てくるのではないかと考えていたが、最初に思い浮かんだのは「平和」という言葉だった。「平和」とは、本当は尊い、ありがたい言葉であるはずなのに、最近は「平和ボケ」とか、平和という概念自体を貶めるような意味で使われることが多くなってしまったイメージがあったので意外だった。

 そうか、ぼくの願いは平和なのかと思っていたら、ぼくが絵を描いている部屋に、たくさんの人が賑やかに集まっていて、家の外の庭が明るく、子供たちが走り回っているような景色が浮かんで、ああこれはとてもいいなぁと幸せな気分になった。よくよく考えてみると、「平和」というは、ぼくの願いなのだが、同時にみんなの祈りのようでもある、その両方の属性を孕んだメタクシュな言霊なのかもしれない。

 多くの方が撮影し、みつろうさんが編集してくださった初日の出の映像には、ぼくも感動してしまった。コメント欄で誰かが言っていたように、ぼくも自分がYouTubeでほろほろ来てしまうとは思わなかったのだが、こんなにもたくさんの人が、みんなの幸せを願っているんだということに、心を動かされたのだと思う。今夜のお話の、心敬のところに書いてあったように、「多くの人のネットワークによって成立しているにもかかわらず、そのような一つの胸の内をもちうる」体験だったのではなかろうかという気がする。みなさんにお礼を言いたい。ありがとうございました。 

 

 今夜のお話で、ぼくはあらためて日本人と歌の結びつきの深さを知った。先生の、王朝の和歌がチャールズ・パースのアブダクションあるいはレトロダクションそのものだという見方にもハッとさせられたし、藤原俊成が、歌というものがなければ、人は花や紅葉を見てもその色香はわからないだろうと言ったように、歌という型(モデル)が、日本人の世界観のヴァリエーションを広げてきたというのが面白い。

 とくに「あはれ」が詠嘆にとどまるだけでなく、さらに心に深く滲み入って、意味をも深まらせることに、ぼくは雪や氷を感じた。

 

 著者と同じくセイゴオ先生も、貫之や定家、心敬や宣長や富士谷御杖ら先人の想いに共鳴し、日本の「歌の本来」を伝えたいと願ったのではなかろうか。

 

 神々の囁くやうに雪降れり

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