鷹の井戸
- Hisahito Terada
- 4月5日
- 読了時間: 6分
更新日:4月12日

千夜千冊0518夜・意表篇、ウィリアム・バトラー・イエーツさんの『鷹の井戸』を読んで思い浮かんだことを書いています。
今夜のお話は、前回に引き続き「外国人によって発見された日本」の、とくに能に代表される「日本という方法」がテーマになっていて、『フラジャイル』や『ルナティクス』『日本数寄』といった、セイゴオ先生のご本ともリンクしている。
『鷹の井戸』自体はかなり昔の作品である。1915年頃、知人から日本の能について教えられたイエーツが、能にアイルランド神話の幻想と通底するものを感じ、二つを同時調査をしながら書きあげたのだという。
今夜のお話を読んでいて、ぼくは自分が民族主義者だとか神秘主義者とまではいかないし、政治活動者だとも文学活動者だとも思えないが、名付けられたりレッテルを貼られるのを拒否したいというか、気の向くままに動いていて、何をしてるのかよく分からないところは、ちょっとイエーツに似ているのかもしれないと思った。
揺れ動きつづけながら、誤解をしようとおもえばすぐに放逐できそうな詩人の魂をこそ、大きく内包する「余情」をわれわれはもつべきなのであると先生は仰っている。先生がぼくのような変わった人間をも相手にしてくださったのは、もしかしたらそうした「情け」の心からなのかもしれない。
先生は『鷹の井戸』を読んだり、観世寿夫さんがが演じた『鷹姫』を観て、ぼくらが現実逃避をせずに、日本の面影を取り戻すためには、イエーツのように、自分たちの思考や表現に、自分では光ろうとはしない月的なるものや、何の役にもたたない領分をあえて持つべきなのだと考えられたようだ。
先月の14離企画会議は、文巻の響読でおおいに盛り上がった。院の自分の稚拙な回答を読み返すのは恥ずかしい限りだが、他の人の回答から改めて学んだり、当時はちゃんと読めていなかった、方師や別番や右筆の指南から気づくことが山ほどあるし、編集女将の言う通り、文巻にはものすごいことがサラッと書いてある。後半はOさんが、コスモス(=人工秩序)について、バウハウスやウルム造形大学と環境デザインの関係を交えて解説してくれたのが、めちゃくちゃおもしろかった。
Oさんの目下のお題は、大乗小乗問題であるらしい。
社会変革や啓蒙には、否応にも各人の認識のあり方が関わってくる。今の社会では、建前上は人間には共通認識があるとされているが、実際はそもそも認知のチャンネル自体が違う人が無数に存在するのである。ポーカーをしようにも、配られた札どころか、ルールもカードの意味さえも分からない人だっているのに「自分の手札で勝負しろ」というのは、最初から破綻しているゲームに他者を強制的に巻き込んで、勝者と胴元だけが勝った儲けたと、略奪や搾取の結果を自分たちの力による手柄だとイキッてるに過ぎないように思う。アフロール艦長が「手や目が3本とか4個に増えたりでもしないと別の現実って分からないかも…」と絶妙な譬えをしていて、ぼくは『アルクトゥールスへの旅』を思い出した。あの話では、胴元がクリスタルマンなのだろう。
現実が人の数だけあるとして、ヴァーチャルなパラレル世界で「それぞれ好きにすればいいじゃん」というのは、たしかにぼくも編集的ではないと思う。というか、編集とは大乗と小乗の間にあるのではなかろうか。実践するのはたやすいことではないし、だからこそOさんも表象に向かっているのだろう。小乗を大乗にしていったり、この現実と別の現実、自分と他者、大乗と小乗の間を行ったり来たりするのが、世阿弥の却来であり、編集なのだと思う。
最近、ぼくの理想的な日本社会のイメージは、大西つねきさんの考えていることに近いようだと分かった。多くの人がそうなったらいいと思っているようで、コメントも建設的かつ充実している。ぼくは大西さんと活動している内海という人物は信用していないが、大西さんの考えには賛同するところが多い。大西さんはたしかFさんの息子さんとも活動していた。このTOLANDVLOGさんの動画の一部にセルタワーの映像があるのは残念だが、自公維新立憲その他売国連立政権が滅びたら、こうした社会イメージをマネージできるようになっていってほしい。
ぼくらは多くの先人と見えない縁でつながっているのだ。最近、維摩師範代は『正法眼蔵』を読んでいるらしく、企画会議の雑談で、校長は如来になって、まだ地獄のようなこの世を救済しようと尽力されているのではないか語っていた。
ぼくもそうだと思う。じつは会議の翌々日、夢に先生が現れたのである。
ぼくの夢はあの世とつながっていて、どこかの開放的なお座敷に、なぜか町田宗鳳さんやエヴァレットさんなど、何名かの先生のご友人がカラフルな法衣を着て集まっていた。先生は真っ白な法衣を着て、蓮の花色に輝く後光を背に登場し、先生とみなさんが、ぼくの中に溜まったモノをデトックスして、祈祷をしてくださるという、ありがたい夢だった。一体何の兆し何だろうと思って気持ちよく目覚めたら、その日ぼくは、来月契約が切れるので解雇されるという通知を受けた。
そこで、今更だけど、ぼくはマンガ家になることにした。
少し前から、そうしてもいいかなと思いかけていたのだが、今度描くファンタジーのマンガを、ぼくは売ってみようと考えている。
普通だったら解雇に落胆して、早く次の仕事を探さなくてはと焦るところなのだが、今のぼくは不思議と何の不安も不安も無く、ただ先生がぼくを見守ってくださっているのだ、ぼくは先生と一緒にいるのだという確信だけがある。どうなるかは全く分からないのだが、ぼくは今キャラクターの設定を編集し直し、デザインを描き直したりするのに夢中で、先生と共に旅立つ新しい冒険の始まりに、ただただワクワクしている。
今夜のお話で一番ハッとさせられたのは、ぼくたちは月にあたるような何の役にもたたない領分を魂や想像力の裡にもっていないと、つい現実逃避したくなるということである。昔は、ぼくにとってはマンガを描くことが現実逃避であり、生前の親父にも、度々そう思われていたのだが、しかしもしマンガを描いて無ければ、ぼくは延々と映画を観るとか、他のマンガを読むこととか、消費的な活動に人生を費やして(それが時々の息抜きや、学びや仕事や癒しにつながるならまだいいが)その度に得体のしれぬ罪悪感に陥っていただろう。そうして別の現実を選び、また同じことを繰り返して、いづれ現実からの総撤退を迫られていたに違いない。
昨年ぼくは自分が「そこがいい」と感じて転職したわけだが、今回は別の現実がほしくなる前に、神仏習合幻想に導かれたようである。多分、ぼくにとってマンガは、魂や想像力の奥に想定される「月の山水」を、日々の現実を通して、多様に多彩に描いておく方法なのだ。
春水の空うつり舞ふ井戸の鷹