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千夜千冊1821夜、森山至貴さんの『LGBTを読みとく クィア・スタディーズ入門』を読んで思い浮かんだことを書いています。
ぼくはずっとセイゴオ先生と対話している「つもり(単なる想像)」でブログを書いてきたのですが、最近はメディアを飛び越えて色々な人とやりとりをしている心地がしています。情報を収集・翻訳・要約などして提供してくださる方々には大変お世話になっています。本当にありがとうございます。
ただ時々テレビ番組などに自分の描いた作品が細切れのネタにされて使われているような気がして(まぁぼくの思い込みや妄想でも結構ですが)、ぼくは相手と会ったことも話したことも無く、相手の意図も分からないので不快に感じてきました。以前は両親が朝ドラなんかを観るので情報がちらとは入ってきていたのですが、耐え難くなってきたので今は完全にシャットアウトしています。
マスコミの中にも今の社会状況をなんとかしたいと思って試行錯誤する動きはあるようですが、たいていは問題の矮小化、あるいは肝心の問題から国民の目を逸らすための別の話題、テクノクラート専制主義への誘導になっていると感じます。
今回の選挙も完全に虚偽なのだろうと思いました。「投票率が低い」ということ自体が、まるで毎度の決まり文句のようです。今回ぼくの周囲では期日前投票に来ている人がかなりいるようでしたし、普段選挙に行かないような人も、危機感を持って今回ばかりは行くという人が多かったです。そんなふうに政治に関心を持っている人々が、自分の名前やおためごかしの主題ばかりを連呼しているだけの者に票をいれるはずがないので、選挙というシステムそのものへの違和感と不信はかなり増大しているだろうと思います。
地盤超絶ゆるゆる夢の幻カジノは大阪にできるとマスコミは言っていますが、長崎もまだ誘致を目指していたりと、日本全土で開発による土中環境の悪化と災害が多発しており油断はできないので、抵抗を継続して行こうと考えています。
性的マイノリティについては、岸田政権は自民党統一教会や日本会議の意向に忖度しているのだろうと思います。アメリカではオバマやバイデンなど民主党政権が性的マイノリティの支持を集めており、マイノリティも異性愛者と一緒に軍隊で訓練を受け人を殺し、戦争ができるようになれるそうですが、これは単なる「動員」であって、人間の幸福や権利とは程遠いです。
マイノリティ政策において表向きは捻じれが見られますが、アメリカと自民党政府、公明党、維新の会などは、ワクチンによる人口削減と人口管理政策に関しては一致しており(野党も信用はできませんが)、欧米で失敗した人体実験によって、情報の届かないお年寄りを中心に、未だに人々を殺し続けています。
今夜のお話を読んで、ふとぼくは数年前自分が作詞・作曲した歌のノートを佐々木局長に託して、セイゴオ先生に贈ったことを思い出しました。音楽に関しては、ぼくは幼少期に姉ちゃんが習うついでに、エレクトーンを1~2年齧った程度で、楽譜を読むことも書くこともままならないので、上杉さんのことを知って「そうか上杉さんに頼んでみたらいいのかもしれない」と一時期勝手に想像していたのです!しかし一体どこでぼくのつたない鍵盤演奏を披露たらいいのか謎ですし、実はあのノート以外に書き留めて無いので、曲は鼻歌で歌えるのですが、ほとんどの歌詞がうろおぼえですすすす…。
そのノートの中に、たしか女性が画家の男を見放す歌があり、その歌詞の一節が「それが芸の道よ」というものでした。しばらくして出版された千夜千冊エディションのタイトルが『芸と道』だったとき、歌詞との微妙な一致が嬉しかったのですが、なぜ「芸の道」ではなく「芸と道」なのか。そこではじめて(ははぁ「芸の道」だと「ゲイの道」と揶揄する人間がいるのかもしれないな)と気が付きました。《ラスメニーナス》に黒人は描かれていなかったし、ぼくにも鈍感でおっちょこちょいなところがあります(イシスの人はだいぶ知っているかもしれませんが)。
例の歌は女の人に歌ってもらいたいと考えていたのですが、ドリアンさんもハスキーな伸びのある声をしていて意外と合っているかもしれないなぁなどと思いました。ただノートがががが…。
ところで日本のテレビ番組を締め出したぼくは、最近はなぜだかケーブルテレビの『リゾーリ&アイルズ』という刑事ドラマだけ気に入って観ています。リゾーリ刑事のお母さんは世話焼きの愛情深いキャラクターで、友人のバーで働いています。ある日バーに配達に来た女性が電話で恋人と喧嘩をし始めると、お母さんは喧嘩の仲裁に入る前に、女性にまず一言「あなたの恋人は男性?」と尋ねました。込み入った話をする前に、相手が同性愛者なのか異性愛者なのか確かめるのが、欧米のマナーなのだということがよく分かる場面でした。けれどぼくは今の日本で誰かが同じ質問をしたら、相手は面食らうか、怒ったような反応をする者が多いのではないかと思いました。
ぼくは子供の頃から洋画をよく見て来たので、同性愛者というものが描かれた場面にも多少接したことがあります(ペドのことを知って以来ハリウッド映画は何も見る気が起きませんが)。
アメリカの映画やドラマでは”異性愛者の主人公がゲイに誘われる”というシーンが描かれることが多いのですが、たいてい主人公が「ごめんね。ぼくは異性愛者なんだ」と言って、相手は「なんだ、残念」となって、さらりとその場面が終わるというパターンになっています。主人公は特に何も気にせずストーリーの本筋に戻ります。
そういう映画やドラマを見てきたせいなのかは分かりませんが、ぼくには現代の日本人の、同性愛者に対する過剰反応は幼稚なものに見えます。日本人の多くが、未だに性的マイノリティ全員を「病気」だとか「精神異常」だと思っているのだろうなぁと考えています。
とはいえぼくも自身も、性的マイノリティをテーマにした作品は数えるほどしか見たことがありません。またLGBTが、レズビアン(lesbian)、ゲイ(gay)、バイセクシャル(bisexual)、トランスジェンダー(transgender)だということは知っていましたが、実のところ今夜のお話を読むまで、セックス(sex)とジェンダー(gender)の正確な違いを知りませんでしたし、知ろうと思って調べたこともありませんでした。
「クィア」とか「+」についてはジュディス・バトラー(1819夜)のときに、そういうものなのかとは思ったのですが、一つ、バトラーのように仕事などで確固たる地位を築いている人や、ドラッグクイーンや「おかま」であることをあえて自認できる人々は「クィアのどこが悪いのか」というふうに言えるのかもしれませんが、そうではない人々にとっては「クィア」も「LGBTQ+」という呼称も「レインボーマーク」も、レッテルになってしまうことがあるのではないかと感じました。また「否定的な価値付けを積極的に引き受ける」ことができる人にとっては、その方法は有効かもしれませんが、「クィア」=「ヘンタイ」(変態)という見方に苦しんでいる人もいるのではないかというのがぼくの考えです。
異性愛者だって「ありのままのわたしらしく」自分の思うように生きるのは難しい時代です。またそもそもありのままをさらすことが「正しさ」や「善」になっては、誰がどのような性的嗜好や思想信条を持っているのか、全てをはっきりさせなければ気が済まないといった風潮になりそうです。マイナンバー(ID)や信用スコアと連動するような、情報を握った権力側による「国民のアタマの中の管理」が始まらないとも限らないと思いました。
自分の性や嗜好を表現したい者は、公共の福祉を考えながら謳歌したってかまわないのだとぼくも思いますが、きっと一方ではアウティングによって自殺した男性がいるように、自分の性的嗜好をできるだけあからさまにしたくない人もいるはずです。だからぼくも先生の言うように「ゆらぎ」や「相補性」を自分の中にも他者の中にも、共に許容して行くことが必要だと思います。
社会の片隅にいるマイノリティが、何者なのかを勝手に特定されたり定義されたりせずに生きてゆけるような場所をつくっていこうとする思いやりが、大多数の人々の中に芽生えて、はじめて社会は成熟したと言えるのではないかと思います。
まず君が君を赦せと告天子