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ありふれたものの変容

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊・1753夜、アーサー・C・ダントーさんの『ありふれたものの変容』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 ぼくはアナログが好きだけどラディカルだろうか、サブカル・アナキズムしてる??

 バッド・フェミニズムというのは、何なのかさえよく分からなくて、やっと調べたところです。




 ぼくは自分がフェミニストかどうかは分かりませんが、前回のブログを書いたときは、ロクサーヌ・ゲイさんと同じように(ぼくには甥や姪がいるので)子供たちのことを思い、あのように書きました。彼女が人生のあらゆる面で何を選択するか意識的になろうとしているように、ぼくも、もうアドレノクロムを接種しているようなセレブが出る大作映画は、金輪際観なくていいなと思うようになりました。

 さて、先夜のリンク先を全部読む前に、もう今夜が来てしまいました。これが〔離〕のペースなのかと思うと、さあ、どうするか…もうちょっと時間編集について考えねばなりません。

 まるで「仮留め回答」ですが、今夜はせっかく先生が様々なアートを紹介してくださったので色々と眺めてみました。

 ぼくも一番見ていておもしろいと思ったのは山口晃さんの作品でした。でもぼくはこの人のは部屋に飾るより画集か何かをじっくり見たいなと思いました。特に「日本橋」は最高ですね。ぼくは今の実物が嫌いなので、こっちが実際の景色だったらいいのになと思ったほどです。

 会田誠さんの作品は随分前テレビで観たときは、わざわざ見たいとは思わなかったのですが、今夜検索して出てきた政治ネタみたいなのは笑ってしまいました。ミキサーやゴミの山に見える人の絵は「よく見ないと分からない」世の中のゾッとするようなしくみの表し方が印象に残りました。

 一番内面的な切実さを感じたのは大竹伸朗さんの作品かもしれません。ぼくは部屋に飾るならこういう絵がカッコイイなと思ったのですが、お洒落なインテリアになってしまっていいものなのだろうか…とも思いました。

 フランシス・ベーコンについては、昔、田中泯さんが絵を見て踊る特番を見ました。ぼくの好みの絵ではないですが、「それを描かずにはいられない」という切実さが生死を喰い破っていったら、あのようになるのかなと思いました。

 マンガには職人芸的な面と、芸術的な面の両方があると思うけど、ぼくは自分がアーティストだという自覚は無いし、アートワールドなんて無縁なことのように思えます。

 見る側としても、ぼくは特に「現代アート」にあまり興味がありません。先生が「商品」と言った感覚がよく分かるようにも思いますが、ぼくはそれにプラスして昨今の「現代アート」全体については「観光・お出かけスポット」「フォトスポット」化しているなぁという以外にはあまり思うことがありません。

 ただ唯一、瀬戸内海の豊島美術館には、それ以外の感覚を呼び起こされました。去年の5月ごろ従姉弟家族と訪れたときのことです。ボーっとさせられるのに、風など自然に対する感覚が研ぎ澄まされてくるようでした。

 また、施設の構造上音が響くので、内部で大きな音や声を出さないことが求められたのですが、3歳の姪っ子が思いっきり「ママー」と言ってしまい、その声が響く響く(笑)。

 しかしその場に居た色々な国の観光客のみなさまが、その声にクスクス笑って、なんだかホッコリとした一体感が生まれました。そのとき「ここはスゴイな」と思いました。

 ぼく自身が現代アートに触れる機会時代が少ないせいなのかもしれませんが、ぼくは「そのアートの価値」というものがよく分かりません。それと同時に最近は特に「価値というのは本当に人それぞれなんだな」ということが、身に染みるというか、腑に落ちるようになってきた気がしています。

 だからかどうかは分からないけれど、今のぼくは、たとえどこぞで何億の値がついた有名人の作品でも、何も感じないものもあれば、バザーで売っているような趣味の手作り作品でも、ぼくにとってはお宝になり得ることがあるのではないかと思います。

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