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千夜千冊0483夜・思構篇、山本健吉さんの『いのちとかたち』を読んで思い浮かんだことを書いています。
今夜のお話では、セイゴオ先生は「もののあはれ」「いろごのみ」「やまとだましひ」といった、面影日本の根本となる概念について、著者・山本健吉さんによる様々な挿話と場面の連関を辿るように綴っている。
2002年は、この千夜をセイゴオ先生が書いた約一カ月前の1月29日に、アメリカ大統領だったブッシュが、イラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで批判した。小泉政権は竹中平蔵の言うままに軍産複合体の手下として働き、自衛隊を派遣するだけでなく、アメリカ経済立て直しのために、日本経済に大きな被害を与えた。
雨が降る前に真夏日になるのは、HPHD(high pressure heat dome)ができるからだと思う。人工降雨はHAARPのマイクロ波の照射によって作り出すため、必然的に大気を暖める。つまり気象操作をすればするほど地球上の平均気温が上昇していくのだ。気象操作こそが、地球温暖化や気候変動の大きな元凶の一つなのである。
気象庁などの政府機関らは、気象操作をするために莫大なエネルギーを使っている。HAARPやレーダーなどを稼働しマイクロ波を大放出するには大量の電力が要るのだ。
他にも無駄な電力消費は山のようにあるが、自分たちの実験の負担を勝手に国民に負わせて、メガソーラーやメガ風力発電や原発を建設して運転している。それらの開発や稼働で山や海の自然が汚染され破壊されることでさらに気温がり、災害が起きて人が死んでいるのに、この根本的な悪循環を誤魔化すために「地球温暖化」「気候変動」「CO2削減」というお題目を人々に唱えさせ、思考を停止させているようだ。
つまり彼らがやっていることを全て止め、大地の再生に注力することこそが、生きとし生けるもののために、気候の本来を取り戻す道なのだろう。
今夜のお話の中で、先生が「和魂漢才や和魂洋才とは、海の向こうの巨きな【漢】(中国)や【西洋】(欧米)にいろいろなことを学び、その成果を【才】として尊重はしているけれど、これを捌くにあたっては【和魂】を大事にしていきますよという意味だ」と強調されているのは、2002年のあの頃からすでに、才の捌き方が分からなくなって、日本人がただ自分の地位と給料のために、外からの命令とシナリオ通りに動くだけになっていたからだろう。
それにしても「もののあはれ」の「もの」が物であると同時に霊であることは、今までも先生の本で読んできたが、「あはれ」が方法としてこのように重視されているとは思っていなかった。
この千夜も何回か読んできたのに、ぼくは「いろごのみ」という言葉に対しても、恋愛のイメージが強くて、あまり注意していなかったように思う。色々なことに関心があるという意味だとすると、ぼくもうっかりいろごのみなのかもしれない。
「やまとだましひ(大和魂)」についても、パッと聞いただけでは、多くの人が厳めしい軍国主義的な感じがするのではなかろうか。今夜のお話を振り返り、この言葉が平安時代からあり、しかも「事を円滑に進めていく才能」や「専門的な技能を日々に応用する知恵」のことなのだとあらためて知って、意外に感じた。「やまとだましひ」とは編集力のことだったのか。
オツ千でも最近の日本は「洋魂電才」になってしまったと言われていてなるほどと思ったが、『情報の歴史』によると、この本が出版された1981年はRPG人気やMTVの現出など、お手軽な電子的快楽が提供されるようになった一方で、エリッヒ・ヤンツの『自己組織化する宇宙』など、欧米からも宇宙科学や生命論と、社会的な組織論をつなぐような見方が登場していた。
しかし日本には、はるか昔から生命の在り方を模したような感染学習があったのだ。
もし企業による殺人と売国と自然破壊を止めさせたいなら、そういったことに加担している企業を支持しないこと、その企業が関わっている製品を買わない、使わないようにするのが近道だと思う。
自分たちが一体何をしている、あるいはさせられているのか、日々の選択を意識し、世の中を広く深く知り、目に見えるものに簡単に騙されないようになるには、先生の言う「もののあわれ」を感じ、広く「いろごのみ」して「やまとだましい」を持って生きていくことが、とても大切になってくるはずだ。
その感染可能な編集力の奥に「稜威」がある。
ぼくは「稜威」言葉を知った時から、なにかの奥義みたいだなといった憧れを持っていた気がする。そういった不思議な力をマンガで表現したいと思っていた。しかし実際『侍JOTO』の最終話を描いていた頃は、ネームの時から先生の体調が思わしくないことを知っていたので、「稜威を描くぞ」などとは全然頭になかった。その言葉自体忘れていたと思う。毎日暑くて、目がショボショボして、ただ間に合うかどうか、それだけが恐ろしかった。原稿を描いていた8月のあの日からは、せめて同門祭には間に合わせたいと、必死だった。でも番期同門祭というものがあったおかげで、「そこ」に向かうよう先生が示してくださったおかげで、ぼくはイシスのみんなと共にさしかかることが出来たのだ。
山霧や龍滔々と昇りけり