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千夜千冊1817夜、ロワイヨーモン人間科学研究センターの『ことばの理論 学習の理論(上下)ジャン・ピアジェとノーム・チョムスキーの論争』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1817.html 今夜のお話は、1975年にパリのロワイヨーモン人間科学研究センターで開かれたジャン・ピアジェの発生的認識論とノーム・チョムスキーの生成文法理論をめぐるシンポジウム(コロキウム)の記録を入念に編集したものである。表紙には古代ギリシアの女性詩人サッフォーのポンペイのフレスコ画が載っている。書字板と尖筆を持つサッフォーなんて14離の会議から生まれたプランニング「文字のバー」のポスターや「文字のスナック」のママさんにピッタリかもしれない。
ぼくは一応「文字のバー」のプランニングを作り、編集学校の「コンティンジェントリンク」に送ったものの、今回の感門には間に合わなかったようである。しかし1月28日の企画会議で曳瞬院のIさんが、0529夜『グラモフォン フィルム タイプライター』について解説してくれたことが、ぼくたちが次に目指すべき方向を与えてくれたように思う。
さて、ピアジェとチョムスキーのコロキウムでの果し合いの計画…などと聞くと物々しい感じがするが、互いの表象をキソイ合うという広い意味では、編集学校式典「感門之盟」で行われる「P-1プランプリ」にも似たところがある。
「P-1プランプリ」とは、破コースのプランニング編集の中からハイパーな作品が選出され、披露される感門の山場的祭りである。驚いたことに49破の代表には、14離「武臨院」のメンバーが師範代を務める教室から2人の学衆さんが選ばれ、残り1枠にはぼくの「アニマ臨風教室」(守)から、「ヤマネコでいく教室」(破)へ進んだ学衆さんが選ばれた。ぼくはあまりに嬉しすぎて、知らせを受けた夜は興奮してよく眠れなかったほどだ。 武臨院の「ちちろ夕然教室」の師範代とは49守を共に駆け抜けた仲だ。この人はいつも学衆さんとイシスへの熱い想いが迸っている。最近勧学会という学校内のコミュニティに開いた「スナック夕子(ユウコ)」は「文字のバー」をイジッて(モジって)くれたのかもしれない(笑)。 「まんなか有事教室」の師範代の指南はどれほど参考にさせてもらったかわからないくらいだ。ぼくが志賀島の山誉め祭の神楽歌の冒頭が「君が代」と同じで、この神楽歌が「君が代」の起源だとする説もあると気づけたのは、実は有事師範代の「君が代指南」を読んでいたお蔭なのである。 お二人とも離の火中から、お題への集中力やチーム戦での牽引力、ここぞというときの機転の利かせ方がハンパなく、ぼくはずっと憧れているし尊敬している。 軽やかなステップを踏むような語り口が清々しいヤマネコでいく教室の先輩師範代には、猫つながりでお世話になった。というのもぼくの教室に出入りしていた「まる吉先生」は、ヤマネコ師範代の守のときの「キジトラ疾走教室」から失踪・脱走し、ウチの教室を仕切っていた(?)のである。まる吉先生は今はアニマ臨風教室のアニまるズが屯するSNSのコミュニティ「(仮)あじさいの庭」によく出没する。 \ 呼んだかニャ / _ ∧_∧ __ / (・ω・) /チラ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ちなみにこの「あじさいの庭」というコミュニティを最初に発案・企画した「唐傘ダムダム教室」の学衆さんは、49破で物語大賞を受賞した。
アニまるズ出身の学衆さんはもちろん、代表の学衆さんたちはみなそれぞれユニークかつ編集の発想が豊かなので、これは感門当日が楽しみである。ただぼくはどの教室にも肩入れ具合が拮抗していて、投票があるとしたらとても悩みそうだ。
ピアジェとチョムスキーの論争の場合は、甲乙つけ難いというより、この二人の理論を対立させても「精神にはいったい何が実在しているのか」というお題は解けないのではないかという気がしてしまったが、それぞれの主張の詳細は興味深かった。 前夜まではぼくはヴィゴツキーのZPD(Zone of Proximal Development)に対し、ピアジェの認知の自己中心的な発達という理論が狭い見方のように思えたが、今夜のお話では、特に「山の実験」のような段階的な「他者の視点の獲得」というのがおもしろい。そう言えばぼくも幼い頃、林の中で松ぼっくりやドングリになって、大きな木を家に見立てたものだ。カナヅチなので松林を海の底にして深海魚になって泳いだりと、「つもり」の世界で遊べたことがぼくをぼくにしたように思う。 チョムスキーの言っていることはごちゃごちゃしていて難しいが、今夜のお話をぼくなりに解釈すると、彼は人間の(子供から大人になるという)成長過程に伴い、どんな言語も同じシステムで習得されるに違いないと考えたようだ。
一方、米国防総省がチョムスキーの研究を通じて「心的器官」(mental organ)と想定しているのは、デカルトも重要視していた松果体のことではないかと思える。となると、だから連中は人間を思考停止のロボット(機械奴隷)化し、AIでコントロールするために、電磁波(5G)にフッ素や農薬にワクチンのグラフェンに…と、松果体を石灰化させるなど人々の認識力を低下させた上で洗脳し、マイナンバー入りのマイクロチップを人体に仕込もうとしているのだなと思う。 しかしそんなことをしたとして、何がおもしろいのかさっぱり分からない。神が人間をつくったように、AIを作って神にでもなりたいか。自分たちのDNAが優秀だとでも証明したいのだろうか。それで、あらゆる権力を手にしてこの世を支配したとして、だから何だと言うのだろう。 そんなつまらないことより、ぼくの関心は「世界をどのようなモデルで認識していくといいのか、認識した世界をどう表現していくのか」にある。セイゴオ先生の仰るように「その表現を思いついた自己(自分)をどういうふうに世界と関係づければいいのか」が、ぼくにとっても人生を通じてのお題となっている。 志賀島と海の中道の自然と人々の暮らしを守るために、日本中&世界中誰でも署名することができると分かった。東京でも似たようなことが起きているので、お互いに協力できるといい。福岡市民や県民でなくても署名をしてくれる人がいるということは、よその県やよその国からの観光客や移住者が福岡や日本に求めるのは、米企業と売国奴が作ろうとしているカジノや”古き良きアメリカの街”や大型商業施設などでは無いということだ。それはそうだろう。旅行に行くならその国の、その土地にしかない自然や史跡に触れたい。ネットの時代、どこでも食べれるものや買えるものや、名前だけご当地何ちゃらなんかどうだっていい。(かの米企業バリーズコーポレーションも”古き良きアメリカ”はアメリカ本土で実現すればいいのだ。米軍兵士も本当に祖国を想うなら、植民地に居ないで困っている自国を救ったらどうなんだろう。) 移住するにしても、自然と人々の心が豊かな場所が良い。そんな場所を求めて旅をするのも素敵だが、ぼくはまず自分が置かれた場で、命同士が共に生きれるよう結んでいく言葉を放とう。 海神の杜となりゆく松の芯