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エネアデス(抄)Ⅰ Ⅱ

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1782夜、プロティノスさんの「エネアデス(抄)Ⅰ Ⅱ」を読んで思い浮かんだことを書いています。

 『プロティノス伝』には、哲学者プロティノスは、肖像を描かれたり彫塑されたりすることを頑なに拒んでいたとも記されている。

 プロティノスは人間が到達する最高の属性を「ヌース」(知性)とみなし、そのことを高度な精神性によって体現しようとした。そのぶんヌースが俗っぽくなることや、おもしろおかしくされることを嫌ったのだ。

 プロティノスみたいに真面目な理由は無いのだが、ぼくも写真を撮られたりするのがあまり好きではないし、自分の似顔絵を他人に描いてほしいとは思わない(自分で描くのも好きじゃない)。ぼくは自分の写真写りはいつも変な気がするのだ。別に実物が写真よりイイというワケでも無いけど、「撮られる!」と過剰になりすぎて緊張してしまうせいだろうと思う。盗撮や監視はごめんだが、ぼくの写真が必要な場合は隠し撮りしてくれるほうがまだマシな気がする(笑)。

 プロティノスは自分について語ることもしなかったけれど、プラトンについては語り続けた。プラトンの深部まで降りていけたからだった。「思想というもの、これを深部で語るか表層的に語るかで、その特色を大きく変えるものなのである」と先生は言う。

 ぼくは最近『エンデの遺言』を読んで、やはり本を読まないと深いところには、降りることすらできないことを、やっと実感したところだ。今はメーテルリンクの『青い鳥』に続き、西平直さんの『世阿弥の稽古哲学』を読んでいる。

 プロティノスの新プラトン主義は、森羅万象をめぐる英知のおおもとを一元化しようとした。これをプロティノスの「発出論」という。しかし何もかも一元化しようとすると無理が出る。そこで存在するものに対してレイヤー(階層)を想定することにした。

 プロティノスは存在するものには「感覚される領域」(コスモス・アイステートス)と「直知される領域」(コスモス・ノエートス)とがあって、前者の感覚界はたくさんあるが、後者の直知界はひとつの世界とみなしたのである。

 直知界には「一」(ト・ヘン)、「知性」(ヌース)、「魂」(プシュケー)が階層をなしていると見たわけである。この「一」(あるいは一者)を神に匹敵するほどのものとして重視した。それが「ト・ヘン」(to hen)である。

 プラトンはト・ヘンを「語りえぬもの」としていた。対してプロティノスはト・ヘンこそが一元性の起源になって森羅万象を司り、ト・ヘンからヌース(nous 知性)が流出しているのだから、そのヌースによって世界の説明がつくと考えた。これがプロティノスの有名な「発出する知性原理」である。

【発出する知性原理】

・感覚される領域(コスモス・アイステートス):たくさんある感覚界

・直知される領域(コスモス・ノエートス):ひとつの直知界

  ↓

・感覚界…たくさん

・直知界…「一」(ト・ヘン) ┐

     「知性」(ヌース) ├─3層

     「魂」(プシュケー)┘

 ところで今夜のお話では、プロティノスがグノーシスを結構こっぴどく批判していたというようなことが語られている。プロティノスによれば「グノーシス主義者はプラトン以上の英知に到達したと自負しているようだが、それが誤りだ」というのだ。

 プロティノスの世界観では、世界はト・ヘン(一者)、ヌース(知性)、プシュケー(魂)の3層になっているので、グノーシス派がヌースとプシュケーのあいだにアイオーンを入れこんでいるのがダメだったようだ。グノーシス派が神を侮辱していること、世界創造者をデミウルゴス(実はヤルダバオート)だと主張していること、英知(知性、ヌース)に関して一貫した説明ができていないことが気に入らなかった。

 ぼくはプロティノスはグノーシス派の置かれた状況に対する、共感が無かったのではないかと思う。プロティノスは生前弟子たちに恵まれていて、自分の世界や世界観に満足できる状況にあったのではなかろうか。それに対してグノーシス派というのは、現状の世界に不信感や疑念、言ってみれば何とかして世界を変えたいという気持ちがあったように感じる。

 ともかくプロティノスは一元的な英知に向かおうとするのに対して、グノーシス派は二元論にこだわるそうだ。ぼくは節操のない一元二元も多元にOKなので、あまりムキになるような違いでもないように思えてしまう。つまりぼくは、神さまと造物神=サタン(だとぼくは思っている)は、多次元の中でそれぞれ別様に存在していると考えている。

 プロティノス以降、ヨーロッパ思想界では、キリスト教とアリストテレスの哲学の辻褄を新プラトン主義によって合わせようとしてきた。先陣を切ったのがキリスト教的一元論に三位一体の階層組み込んだアウグスティヌスである。これをトマス・アクイナスが『神学大全』に高めて総合化し、さらにそれをディオニュシウス・アレオパギタがさまざまに解釈していった。しかしこれらの試みが七転八倒大回転の挑戦であったことは、アウグスティヌスの千夜を読んだ人なら想像できるのではないかと思う。

 生首のエピソードで有名な聖ドニは、3人ものキリスト教ヒーローが組み合わさったイコンである。そのドニが埋葬されたサン・ドニ修道院に、12世紀前半に就任したシュジェール院長は、プロティノスの新プラトン主義に共鳴し、低次元の世界もアナロジカルな方法によって高次の世界になりうると『統治論』に書いた。

 ケルンに神学研究所を開いたアルベルトゥス・マグヌスはヘルメス文書群に関心をもち、いったい「神と世界の連結」はどう説明できるのかを考えた。やがてプロティノスの『エネアデス』に出会うと、キリスト教神学を新プラトン主義に近づけた。ト・ヘン(一)からヌースだけでなくペルソナ(神の位階性)も流出したとみなしたのだ。

 千夜千冊本編では、ここでルネサンス期の代表的プラトン主義者としてフランチェスコ・ペトラルカという人物が紹介されている。この人はどうやらプラトン主義の「プラトニック・ラブ」の部分を担当し、更新した人物であるようだ。

 また西洋では山に登って山頂からの眺望を愉しむという趣向を初めて発見したのはこの人だったらしい。ぼくは山に上れば誰でも眺望を愉しみそうな気もするので、そんなことを、わざわざ「文化的な歴史」として記録に残すことを不思議に感じる。鈴木大拙さんの『禅』にあったように、西洋では基本的に自然を征服の対象とみなしてきたが、ぼくたちは八百万の神々やら草木国土悉皆成仏を分母として「自然と親しむ」という文化を育んできた。そういった違いの表れなのだろうか。そんな西洋においてペトラルカさん、ちょっと浮いてておもしろい。

 本編では他にもニコラウス・クザーヌスや、プラトン・アカデミーを開設したマルシリオ・フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラによる神秘ちゃんぽん化、ジョルダーノ・ブルーノによる再グノーシス化が紹介されている。

 近世近代においては、プラトン、アリストテレス、新プラトン主義、カトリシズム、合理主義、ユダヤ=キリスト教異端思想、グノーシス、神秘主義は次々とまぜまぜされてきた。先生はこれらを魔術的現実主義とみなしていた40代までの自分の見方を反省しているという。

 新プラトン主義はバロックで飛躍し、ロバート・フラッドの両界宇宙観、コメニウスの汎知学やヴィーコの知識学、ヤコブ・ベーメの神秘思考、ウィリアム・ブレイクの詩などへ結実し、シェリングの思索とヘーゲルの哲学史観に集約されていったのだ。彼らは「本質を一者にまとめる」方向に進んだが、大きく育った世界樹は、マルクス国家資本主義にギタンギタンに伐られてしまった。こうして「神と人のつながりをめぐる思想哲学」は無力になったかに見えたが、ユダヤ人でタルムードの研究者でもあったエマニュエル・レヴィナスにひっそりと受け継がれた。

 プロティノスは、「知性とは、人が自身を振り返ることによる認識である」とした。時を越えレヴィナスは「他人との対面を他人から自我に向けられた経験とし、理性をその関係の担い手とみなした」とある。最近のぼくの経験に照らし合わせて考えてみると、他者との出会い(ぶつかったり否定されたこと)を、自分の心に向けられた経験(寂しさや悲しみ)として受け入れ、この世界を生きる上での糧へと編集していくには、理性的な振り返りが必要だということだ。

 OさんやYさんには反世界観は通じなかったが、昨日の会議で『情報の歴史』を擬くという企画もやっぱりなかなか難しいねという話になり、TさんやHさんやFさん、武臨院の女神たちがリードして、まずは千夜千冊と文巻と現代社会をつなぐような勉強会をしてみることになった。なんとなくぼくのブログの方向性と似ている気がして不思議だ。

 

 プロティノスと新プラトン主義の考え方は、万物が一者から流出しているという思想をヨーロッパ哲学史の中に植え付け、一神教的な考え方と結びついた。やがて結果的に「世界」は一つの世界観で説明できるのだという見方が権力を持ち、そこから今日におよぶ普遍主義や資本主義グローバリズムが派生していったのだろう。

 

 そのグローバル普遍資本主義が世界を滅ぼそうとしている。

 利益は格差からしか生まれない。

「資本主義からは降りれない」と諦めることは、略奪や搾取を肯定し、管理された生産と成長を強制する、息苦しい格差社会を造ることに貢献し、未来を諦め個人主義に生きるということだ。

 

 世界を変える方法はある。ここにある。あとはどうやってそれを始めるかだ。やってみなければ始まらない。やるには相手が要る。他者が要る。

 だからコミュニケーションの経験が不足しているぼくは、師範代になるための花伝所に入ったのだと思う。いつも何かに背中を押されて、後でその理由に気づく。〔離〕が世界読書奥義を通じて、ヌースに出会えるようになるための場所であるのに対し、花伝所は今を生きる他者と向き合うことに特化した場所なのだと感じる。

 セイゴオ先生は50代にさしかかるころから、世界と反世界を同時に語る方法をもつべきだろうと思うようになったのだという。今夜のお話には、先日のぼくのひとりごとを反転させたメッセージが投影されているように思えた。どんなに近くにいても重なれないこともあれば、存在同士が時空を越えて重なることもあるのだ。

子ら駆けるヘン・カイ・パンの秋夕焼

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