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クローゼットの認識論

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

千夜千冊1828夜、イヴ・コゾフスキー・セジウィックさんの『クローゼットの認識論 セクシュアリティの20世紀』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1828.html  ぼくのクローゼツトの中の服は、たいていが貰い物かプレゼントだ。ここ最近(といっても2年ほど前に)唯一買ったのが『うさと』の服で、このブランドはユニセックスな雰囲気を持っているのだが、ぼくは単にデザイナーの理念や、製作~販売までのコミュニティの在り方に感心しているだけで、しかも買ったのはその一着で、あとはうーさんからの贈り物なのである。

 というわけで、ぼくの場合クローゼットがセクシュアリティの認識を表しているのか分からないが、とくにぼくには女装をする趣味は無く、スカートなどを穿きたいとも思わないので、男の部類に入る、ということなのだろう。ただ最近は性認識に関わらず、単にファッションでスカートを穿く男性もいて、スカートを穿いているからと言って女装だとは限らないのだそうだ。  今夜のお話はミソジニー(女性嫌悪)や、ホモフォビア(同性愛恐怖)など、一知半解になっていた言葉の意味を調べながら読み進めたことで、普段は接することの無い、当事者の書いた記事がたくさん見つかり勉強になった。  著者の『男の絆』については、ぼくもセイゴオ先生と同じく、幼年期の先生ともっちゃんの他愛ないやりとりや、稲垣足穂さんやヘッセやノヴァーリスから感じ取れるものがホモソーシャルだというなら、(何か別の呼び方があってもよさそうだが)それがミソジニーやホモフォビアを用意していたというのは、穿(うが)った見方だと思う。  ミソジニーやホモフォビアは、例えばテレビで、タレント芸人がオネエ系を「おっさん」とイジるときなど、むしろ異性愛者が自分が同性愛者ではないことを(自分の性的アイデンティティを)強調しようとするときに表れるのではないだろうか。  先日紹介した人身売買幼児救出作戦のドキュメンタリーの中で、犯罪者たちが○歳の少女を買ったと、互いに少女の若さを競って薄汚い嗤いを浮かべていたが、ああいった集団買春をホモソーシャルというなら、タルホさん的なホモセクシャルやホモエロスというのは全く対極にあると言える。整理してみるとこんな感じになる。  ホモセクシャルやホモエロス … ゲイ(同性愛)を肯定。  ミソジニーやホモフォビア … ゲイやフェミニズムを否定。  こんなに対照的なものを一緒くたにホモソーシャルと呼んでしまうと余計にややこしくなるのではなかろうかと思う。  

『クローゼットの認識論』は論理的ではあるものの、掲げられている「公理」は、あくまでマジョリティがマイノリティを分析する際の注意事項といった感じがする。ぼくとしては公理3までは、まあそうだよなぁと思うものの、公理4については、ミソジニーやホモフォビアやトランスフォビアの者ほど、ゲイやトランスを後天的な環境要因=養育(育ち/ナーチャー)と決めつけたがる傾向にあるように感じる。LGBTはホルモンバランスの乱れやDNAの損傷などによる病気だと言いたいらしい。日本ではそう主張する人間が、レズビアンやトランスを「再教育してやる、病気を治療してやる」などという理屈でレイプすることがあるという。全くどれだけゲス野郎なのだと思う。  公理5については、そもそもアイデンティティが固まってしまうこと自体が息苦しさの原因なのではないかと思うので、ぼくは曖昧なままでいいと感じている。公理6については、まだ文学のほうが勉強不足なのでよく分からない。公理7については、編集学校ではよく行われる「動詞的なアプローチ」が他者への共感の足掛かりになることがあるが、それを同一化だとか、奇妙だとは思わないので、ぼくもやはり先生と同じく、著者の主張は着心地がしっくり来なかった。  先生の三つのまとめに対しても色々なことを考えた。 1・ぼくはまだファッションについては、これといったスタイルが無いなぁと思った。生き方を併せた意味でとらえると、ぼくはなんだかやたら貰ったり借りたものでやりくりしているので「借り(仮)暮らしのテラダ」といったスタイルになるのかもしれない。 2・日本政府はおそらくLGBTの政治的な活動を警戒しているのだろうと考えられる。LGBTのパレードは他の○○反対運動と違って、日本の抗議活動にはめずらしく、参加者が楽しそうなのが特徴的だ。海外では、他の抗議活動でも同じように、ある種お祭り的な雰囲気があるため大規模になりやすい(大規模になれば衝突も起こり、社会的に無視できなくなってくる)。つまり政府はLGBT運動の持つエネルギーが、憲法や原発など他の社会運動に拡張してほしくない、コントロールできない事態が起きて欲しくないのだろうなとぼくは感じている。 3・「生命や病気の思想」というのが、どういった背景を持つ話なのか、はっきりとは分からなかったが、ぼくは世間で「Q+」とか「進化」というとすぐ「LGBTQ+はトランスヒューマニズムでもペドフィリアでも何でもありなんだろ」と考える人が多いのに辟易とする。  たしかにグローバリストは、国連を使って「LGBTへの差別をなくすために、未成年者が同意しているならば、性行為の相手は無罪ということにしよう」というように誘導しているようだ。しかし落ち着いてよく考えると、LGBTへの差別と小児性犯罪は関係ない。無関係だからこそ彼らは(国連告発動画の後半にあるように)わざわざドラッグクイーンを小学校などに行かせて、あたかも全く別の2つのことが同じであるかのように見せかけている。小児性犯罪をLGBTでカムフラージュし、こっそり正当化しようとしているのだろう。  この誤魔化しは、小児性犯罪を嫌悪するぼくらが、LGBTは小児性犯罪者だと誤解するように仕向けている。反対にLGBT当事者や積極的な擁護者からは、ぼくらがあたかもミソジニーやホモフォビアであるようにも見せかけているようだ。だからこそぼくたちは、LGBTを擁護すると同時に、小児性犯罪を重大な社会問題として提起する必要がある。


 トランスセクシャルとトランスヒューマニズムも全く別物で、結局のところトランスヒューマニズムとは、マイクロチップによる管理社会化でしかない。そこでは一部の既得権益以外は、LGBTであろうとなかろうと奴隷ロボットに他ならないのだ。  また一方で、ペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアは「相手の自律的な合意を得る」ことが不可能だ。そうした嗜好が存在すること自体には寛容な意見もあるが、LGBTPZNだろうと、反対にそうではない人間だろうと暴行は暴行なのだ。寛容な人々が主張しているのはあくまで「やってしまわないための連帯」であることを知っておきたいものである。  LGBTを全力で応援するアーティストと言えば『Bone this way』を歌うレディ・ガガを思い浮かべる人が多いが、この曲のミュージックビデオは、多様性や生命賛歌とは言い難い気持ち悪い演出になっている。それでアドレノクロムやセレブの悪魔崇拝に詳しい人は、ガガもサタニストなのだと言っているが、見方を変えると、これはガガという有名人を使って、LGBT=悪魔崇拝者という、差別や憎悪の種となるイメージを、大衆に刷り込むための洗脳ビデオだとも考えられる。  ぼくはガガさんはマドンナとは違うタイプのミュージシャンで、突っ走る不器用なタイプなので、エイズワクチン・キャンペーンに利用されたクイーンのフレディ・マーキュリーと同じように、利用されたのではないだろうかと思うのだ。あのビデオはむしろ、LGBTはエイリアンのような化け物だと侮辱しているようにもとれるし、彼女自身が伝えたかったと思われる多様な人々を勇気づける歌詞のメッセージと、曲のエネルギッシュな明るさと、映像の不気味なモードは調和していない。だからぼくは、彼女はまだセレブ世界に蔓延る性犯罪を知らないうちに、プロデューサーや演出家の意見に流されて、サタニストのスポンサーに媚びるような、イルミナティのシンボル満載の変なミュージックビデオを作ってしまったのだろうと考えている。個人的にはガガさんの歌唱力は凄いと感じるし、クイーンの曲自体もワリと好きなほうだ。  だからドラッグクイーンやLGBTを擁護するアーティストには、知ることで自分たちを利用されないようにしてほしいものだと思っている。そしてたとえ彼らが利用されたとしても、ぼくらがマスコミの認知戦略に引っかかり、”ヘイト野郎の陰謀論者”にないために、自ら当事者に対する知識と理解を養っていく必要がある。   空色の齢十四の夏衣

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