
千夜千冊1839夜、山口昌哉さんの『カオスとフラクタル』を読んで思い浮かんだことを書いています。
あけましておめでとうございます。喪中であるため、縁起物は飾らず、母が花だけは生けました。相変わらずですが、電磁波対策はしており母は無事なので、ぼくの頭痛と耳鳴りは、スマートメーターの電磁波が原因となって、脳の神経か何かが常時興奮状態になってしまっているではないかと思います。なかなか眠れないのが辛いですが、セイゴオ先生やSさんの具合に比べたら、まだ楽なほうなのではないかと思います。
今夜のお話は、生涯にわたりカオスについて研究をされた山口昌哉さんのお話で、数理系にもこんな愉快な方がいるのかと思いながら読み進めることができました。ぼくとしては特に、今までよく分かっていなかった決定論と非決定論のちがい、線形性と非線形性のちがいについて、水道の水とサイコロの説明を読みながら、試しに絵とグラフを描いてみたら、自分なりに理解できたのが嬉しかったです。
カオス理論が人口問題から生まれたとは思いませんでした。世の中を支配してきた連中が、マルサスの人口論とロジスティックス方程式のどちらを信仰しているのかは知りませんが、いづれにしても人が増えれば自分たちの使う資源が無くなるという恐れから、人口削減しているのだと思います。ぼくも人口が増えることで、資源を奪い合い環境破壊が進むこと自体は心配していますが、ならばそのことについて、みんなで学び合い話し合って、結婚して子供を産まない人同士でも、支えあって老後を生きることができるような社会的な仕組みをつくればいいのであって、ワクチンや添加物で勝手に人を病気や不妊にしたり殺したり、人工的な災害や空爆をしていいはずがありません。
ぼくたちは彼らの計画やシナリオから離れて、新たな国民的システムを、新たなメディアを、つまりはぼくたち日本を、世界の人とも仲良く平和にして共存していける日本を創造してしまえばいいのだと思います。それでこっちのほうが学ぶことも楽しくて、自然も人の心も豊かで美しく、生き方も自由で多様であれば、日本の会社も海外からのお客様も、なんだこっちのほうがいいじゃんと思うのではないでしょうか。そうしてこっちの日本に引っ越してくる人々をあっちより多くしてしまえば、こっちが日本になるというのがぼくの作戦です。きっとセイゴオ先生がかつて「編集の国イシス」を作られたのも、そのためのデモンストレーションだったのだと今は思っています。
ぼくにとっては、その新たな国民的システムをつくっていく上で、参考になるのではないかということで、昨年末取り上げられたのが、鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』でした。一通り読むとまた少し印象が変わり、少々気になる部分があったので整理しようと思います。
まずはPICSYについてです。世界規模の「人事評価システム」(5・1・7)p107という構想が、中国の信用スコアとどう違うのかなと思いました。実はぼくも最近バイト先にて、従業員の接客態度や服装への評価をオープンにするという取り組みがあったのです。評価する側からするとオープンにして意欲を出させようというつもりなのだと思いますが、される側からすると、一挙手一投足を監視されながら労働を強いられているという気分でした。はてな社でPICSYが採用されなくなったのも、点数をつけられる側の人格が傷つけられたという面が大きかったのではないかと思います。
PICSYの場合は上から一人が点数をつけるのではなく、相互評価だから大丈夫と考えられるのかもしれませんが、ヘタをすると戦時中の隣組や、コロナ詐欺の時のマスク警察のような、相互監視システムとして使われるのではないかと思いました。その点、イシス編集学校の評価は、数字ではなく言葉に徹していること、評価をする側も編集力が問われることが大きく違います。
次にPICSYの場合、虚偽登録を防ぐために人口を正確に把握する強い管理力が必要
(5・3)p112という部分が引っ掛かりました。そうすると管理者(管理組織・管理する企業)への権力(情報)の集中を加速することにならないでしょうか。これでは現在のデジタルファシズム状況と大差ないのではと感じました。ぼくは堤未果さんの仰るように、管理力自体を分散させたほうがいいように思います。市町村単位で、互いに顔の見える範囲ごとにしてしまう。ゆるく弱く小さく。上善如水です。
全体にデジタルでのシステム構築が前提となっていますが、貨幣に関してはアナログでもいいのではないか、ぼくは大福帳でもいいのではないかと思っています。
龍神の雨の祝詞の三日かな