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千夜千冊1829夜、工藤万里江さんの『クィア神学の挑戦』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1829.html これでもかというほどの大量のケムトレイルによって灰色の汚い雲が垂れ込め、異常な暑さと豪雨が交互にやってきている。加えて土地活用や森林活用という名で行われる開発によって荒らされた山河が、線状降水帯により土砂崩れや氾濫などの揺り返しを起こしている。相変わらずナチスNATOやグローバリストや売国政府は、増税とワクチンと5Gとマスコミによる洗脳と気象操作で、一人でも多くの人間を苦しめ、殺そうと必死のようである。 今夜のお話は、3人の神学者の著作を通じて、異性愛主義と同性愛嫌悪からの救済を謳う、多様でQ(クイア)な心学運動を紹介している。3人の神学者は、自らの性的マイノリティとしての経験から、高度資本主義社会の歯車になっている現在のキリスト教では、本当に救いを必要とする人々を救えないと思ったようだ。
一
一人目、カーター・ヘイワードは『私たちの強さに触れる―力としてのエロティックと神の愛』で、「上からの力」(power-over)を強調し「身体化された知」を無知とみなすキリスト教の限界に挑んだ。アガペー(神と人間の愛)とエロス(性的な愛)とフィリア(友情的な愛)を区別する「ゴッディング」(godding)な見方が、キリスト教徒をエロトフォビア(性愛嫌悪)に陥らせているのだという。 さらにヘイワードはマルティン・ブーバーの立場に寄せ、神は共同的な動向そのものであり、イエス一人だけではなく、多くの者に身体化(embodied)をおこしうるのだと理解した。 キリスト教の愛の分類自体はさておき、ぼくはペドフィリアのフィリアが「友情的な愛」だというのに驚いてしまったというか、呆れた。現実のペドは、友情なんてものとは程遠い、幼児や児童の虐待と虐殺だというのに、そんな言葉があてはめてあることに、日本語の「小児性愛」と同じような印象がある。
なぜこんなにややこしいのか。たしかに日本には古代から、少年愛と呼ばれるものがあったし、また日本にも人柱などの生贄や、子殺しもあった。ただし日本の場合、衆道や稚児愛の対象となる少年や青年は、大人に一方的に消費され殺されるのではなく、大人になれば僧や武士や能役者としてその後の人生を歩んだ。衆道(同性愛)と人柱(生贄)や子殺しは別々の事象だったのだ。しかしだからといって、子どもを商品のように消費する、現代の小児性犯罪が正当化されるわけではない。 ローマカトリック教会は小児性犯罪の一大拠点だ。法王たちは宗教が権力と一体化すると最悪なものになりうることを、キリスト教を使って証明したようなものである。ヘイワードのように身体化した内なる神を知るキリスト教徒たちは、こんな腐った権威に承認を得ようとする必要など無いのではないかとほくは思う。
二 エドウィーナ・サンズが造形した女性のキリスト像については、ぼくはそもそも、磔のキリスト自体を崇める気持ちが理解できない。信者に原罪の罪悪感を意識させるためなのだろうけど、ぼくはただ単にキリストが痛々しく可哀想な感じがして、下ろしてやればいいのにと思う。磔の人間を拝ませるというのは、「生贄」が「自己犠牲」にすり替えられた、意味の転化に近いのではないかという気もする。
ぼくは支配者というのは、神の掟やキリストを掲げて、信者には「神の法を守れ、犠牲を払え」と言うが、自分たちはその神や犠牲のもとに、戦争や暴力を正当化してきたのだと考えている。以前ぼくの家族がよく観ていた、アメリカで人気だったという『クリミナル・マインド』というドラマにも、あらゆるタイプの残虐ことをする人間やサイコ集団が出て来たものだ。しかしいくら神や悪魔を言い訳にしたところで、人間はサディスティックな方法では、純粋な相手を何人殺して食ったとしても、エゴイズムの果てしない乾きが永遠に続くだけで、性的な経験を通して神秘的な何かに至ることなど不可能だ。
サド侯爵の問題の核心は、権力者たちが、実はサド以上の残虐行為と惨殺をしてきたし、今現在もしていることを、白日の下に晒すキッカケをつくったことなのだろう。 性別ということに関して言えば、キリストという歴史的な人物を女としてみるのと、宇宙の根源的な神や創造主を女(女神)として見るのとでは微妙に違うのではないかと思った。
赤坂真理さんの書いた『東京プリズン』という小説では、アメリカの高校に通う日本人女子高生が、授業のディベートで、昭和天皇に太平洋戦争の戦争責任があるかどうかを問われるのだが、終盤、天皇とキリストが重ねられると同時に、天皇は性や個を超越した「大王(おおきみ)」として描かれている。
ぼくはこの小説の主人公と同様に、昭和天皇が「女だ」と言われることには違和感と反感を覚えたが、それは昭和天皇がキリストと同じく、ある時代の人間の男として想像されたからだろう。一方で主人公が神秘体験の中で接した大王の母性は、大いなる女神とも、性を越えた存在ともイメージできた。
三 ちょうど先日の14離の集まりでも、曵瞬院のSさんが『神道とは何か』という同タイトルの千夜千冊二夜をテーマにお話をしてくれた(鎌田東二さんと伊藤聡さん)。著者の鎌田さん曰く、日本が多神多仏の神仏習合国家となったのはハイブリッド型のクレオール文化として成長してきたからなのだそうだが、ぼくはその混淆性を用意したものこそ、マザー・ネイチャーなのではないかと思う。
ぼくとしてはもしコメントを求められたら、鎮守の杜や巨石信仰や龍神(蛇や蛟)信仰が、岩清水の流れていく山川を守ろうとする意識につながっていることで、日本の水源が支えられていることなどを、神道のセンス・オブ・ワンダーとして関連付け話そうと考えていたのだが、その日は急なQに動揺して、みなさんに幼少期の不思議体験(別の意味でのワンダー)を披露してしまった。 二人目のエリザベス・スチュアートは、そもそもキリスト教自体が処女懐胎や三位一体などを確信する神秘的でクィアな宗教なのだし、洗礼によって誰もが恩恵を受けれると言うのだから、男か女か、同性愛者か異性愛者かなどというカテゴリー自体が不要なのだと、反アイデンティティの神学を志した。
ぼくの考えは彼女に近いのではないかと思う。神秘とかワンダーというと、ぼくも神の「受肉」(incarnate)はイエスや天皇だけに起こるのではないと知っている。そうした体験がどういったものかは、『東京プリズン』のほか、田口ランディさんの『オクターヴ』や『オラ・メヒコ』、ウラジミール・メグレ氏の『アナスタシア』なんかを読んでみても参考になるのではないかと思う。
四 三人目、マルセラ・アルトハウス=リードは、ラテンアメリカのマイノリティが背負わされた、いくつもの厳しい現実の抑圧から人々を解放しようと、権威化し暴力による支配を正当化してきた「モノ/キリスト」に対抗する「バイ/キリスト」(Bi Christ)という新たなキリスト像を提唱。答えではなく問いを与える、マレビトとしての神を想定した。 キリストのパロディに関しては、ではぼくらは天皇のパロディを許容できるのかとか、ムハンマドのパロディはイスラム教の人々に失礼ではないだろうかとか、また先生がとりあげた「決定的な違いをもった反復」とは何だろうとか、色々と問いが湧くが、そうしたQこそが、膠着した状況や既成概念や、洗脳と支配のシステムを揺さぶる思考のために必要なはずだ。 先日ぼくは農家のOさんの田植えの手伝いに行った。「米」という漢字が「八十八」という文字から作られたのは、お米を作る過程に88の手間がかかるからだと言われているが、今ぼくらの間で噂になっている「稲の多年草栽培」だと、小規模で誰にでも米作りが出来るそうだ。ただしこの農法は、水田に水を張り続けなければならないので、湧き水などが自由に使えない田んぼでする場合は、周囲に理解者を増やしていくことが求められる。ぼくは湧き水を表す渦巻紋が多かった縄文文明の稲作は、多年草栽培だったのではないかと想像している。
「八十八」と書いて米と読むのは、米一粒に88人の神さまが宿っているからだという説もある。一神教の人々にはさぞやクイアな話だろうが、稲を育てる日の光、風雨、山河の水、虫、泥(土)とその中の微生物や菌…すべての「共同の動向」によって米ができているのだ。ぼくにとってはどこぞの教祖や権威よりも、この小さな目に見えぬものたちや、Oさんたち農家の人々のほうが、よほどありがたく尊い存在だ。
その日は田んぼの泥に足を取られながら、タニシやアメンボを見つけ、汗をかいて日に焼け、昼にはFさんの奥さんお手製のおむすびを食べ、昔の田植えの話を聞いたりした。ぼくはただこんな風に、そこら中にある命との関係を感じながら生きたい。
忘れらし田植え唄問う青田風