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千夜千冊1776夜、クルト・ルドルフさんの『グノーシス』を読んで思い浮かんだことを書いています。
今夜の千夜千冊は、先週のぼくの解釈をまとめ、補強していただいたようで、なんともありがたい。セイゴオ先生とチーム千夜のみなさまに感謝である。今宵新たに加えられたのは、グノーシスがどのように芽生えていったかという経緯だ。
グノーシスの造物神ヤルダバオート(Jaldabaoth)は、プラトンの『ティマイオス』に登場する、デミウルゴス(Demiurge)という「職人」や「工匠」の神をモデルにしている。ぼくはギリシャ神話と言えばゼウスで、あのプラトンがデミウルゴスという神が宇宙を創造したと仮定していたとは知らず意外なことのように感じだ。
ただしプラトンを継承するプラトン主義者たちは、世の中が堕落していたため、デミウルゴスは完全な宇宙を創るどころか、不完全なものばかりを世の中にまきちらしたのだと考えた。
やがてヘレニズム時代がやってきて西方文化と東方文化が混じりあってきたころ、古代ユダヤ教の中から原始キリスト教を生みだされようとしていた。
同時期にこのデミウルゴスを、ヤルダバオートと呼び換え、プラトンとはまったく異なる知の世界観を唱えたのがグノーシス(グノーシス主義)だった。
ヤルダバオートはナグ・ハマディ写本の、『この世の起源について』のなかで、おぞましい「傲慢な造物主」とみなされて登場する。
なぜグノーシス主義者はプラトン的なデミウルゴスを、ヤルダバオートなどという名称に変えたのか。やはりヤルダバオートはユダヤ教の唯一神ヤハウェを、グノーシス主義者が言い換えたもののようだ。過激な編集は時代のせいか信仰のせいなのか。「他に何か隠さなければならないことがあった」のだとすれば、それは後にローマのコンスタンティヌス帝によって”絶対禁書”に指定された律法(トーラー)の内容のことかもしれない。
コロナ詐欺の緊急事態が終わって、ようやく図書館が開いたので、張り切って本を借り貪るように読んだ。せっかく千夜千冊が神秘主義を連打しているので関連したものを探してみたのだが、手あたり次第だったので最初は的外れなような気がしていたところだった。今回借りた神秘系の本…
一冊は、基本のお勉強モノ『名画とあらすじでわかる!旧約聖書』町田俊之
二冊目は、歴史陰謀モノ『封印されたモーゼ書の秘密』K・V・プフェテンバッハ
三冊目は、脱線お楽しみモノ『ノーム』文:ヴィル・ヒュイゲン、絵:リーンポールトフリート
というラインナップだ。
今一番興味があったのが『封印されたモーゼ書の秘密』だったのだが、その内容はぼくの予想を外れ、さらなる疑問が湧くこととなった。もしぼくが先週グノーシスについて学んでなくて、またシモーヌ・ヴェイユを読んでいなかったら、著者にのせられていたかもしれないと思う。
著者プフェテンバッハは貴族で、『黒聖書』と呼ばれる『第六のモーゼ書』『第七のモーゼ書』を手に入れたようだ。彼によると聖書の神(ヤハウェ)には「白い神」の面と「黒い神」の面という2つの顔(位相の違い)があり、大多数の人々は自然の摂理に従う「白い神」を崇めているが、モーゼは神の「黒い神」としての面を知っており、秘儀によって黒い神を使役できたために、数々の「奇跡」を行うことができたというのだ。
黒い神は具体的には人間の物理的な欲望が叶え文明を手助けする。そして実は、いわゆる「アンチキリスト」とは黒い神を召喚することが出来る者であり、モーゼが行ったような秘儀である「召喚神術」を継承した人類の指導者のことなのだという。封印されていたという第六・第七モーゼ書は、自然の法則が災害などによって人間を滅ぼそうとするなら、神の力を利用して自然の法則を追い落とし、人類が万物に君臨する神になってしまえばいいと言っているらしい。
いやいやいや、おいおいおい。どう見てもこれは悪魔を呼び出す黒魔術書だろ!とかなりの回数ツッコミたくなった。B級ニセモノ感も満載なのだが、著者はモーセを偉大な英雄と見なしている。そんなことからぼくはふと、もしかしたら最新技術による文明の力で世界=万物(人類と自然の法則)を支配しようとしているエリート支配層は、この本の著者ような考え方をしているのかもしれないと思った。
しかもこの黒聖書は、十四世紀にローマ法王を幽閉していたフランス王家からロシアのロマノフ王朝に流れ、そのロマノフ家の生き残りの分家筋から彼に渡ったというのだ。時の権力者たちは時代を越え、表向きは(白い)神を讃えて、民衆に神と神に選ばれた自分たちを崇めさせながら、一方で(黒い)神によって自分たちの欲望を叶えてきたのではないだろうか。
古代社会においては、大衆には神を畏れ敬わせ、自らは神に命ずることのできる人物が理想的な指導者だった。ゆえに指導者は大衆には神の「光の顔」を拝ませ、自分は黒い神の「闇の顔」を拝んでいたのだとプフェテンバッハは説明する。
ぼくはこれこそがグノーシス主義者が決定的に「正負の逆転」をおこしたかった世界観であり、愚かなことに現在も形を変え続いている世界だと思う。ためしに上の文章”古代社会においては、大衆には神を畏れ敬わせ、自らは神に命ずることのできる人物が理想的な指導者だった”の「神」を天皇やAIと言い換えてみると、この世界観の傲慢さが実感できるのではないだろうか。
そして一方、この黒い神を呼び出すための「召還神術」とやらが「黒ミサ」や「悪魔崇拝儀式」のルーツで、ヤハウェとモーゼが殺した人々は儀式の生贄だったのではないかという気がする。著者は日本人が正当なモーゼの遺伝子を受け継いでいるんじゃないかと勝手に思っているらしいが、ぼくはこんな世界観丸ごとこっちから願い下げどころか、宇宙の果てまで放り投げたいぐらいだ。
グノーシスはロックな思想だが「世界が堕落している」という見方から生じてきたのではない。本来の神聖な魂が持つ「火花」(プネウマ)のような核心的なものが、死の支配するこの世に落ちてしまったのだという考え方なのだ。魂の炎を取り戻すためには、世界と自身とが神的な対応性によって同時に覚醒していかなければならない。
このとき従来の世界観に自分を対応させるのではなく、自分の世界観ごと覚醒しようとするのがグノーシスなのだ。
そのためには、目に見える物事や現象の向こう側、従来の世界観の外側に「知られざる神」たちを想定し、それらが集まって充満をおこすのだと考えることが必要なのだ。この充満のことをプレーローマ(pleroma)という。
プレーローマはマンガの設定作りにすごく似ているように思う。マンガに限らず、まるで物語を作る前のキャラクターや世界観作りのことのようだ。
プレーローマはいくつかのアイオーン(羅aion、英aeon)によって変転する。世界層のようなもので、天界と地上界にそれぞれ「宿命の目印」を見せている。この目印は必然・運命・宿命を司るヘイマルメネー(heimarmenee)が管轄する。
グノーシスでは、そういう宿命(ヘイマルメネー)を決定づける動向を支配するものをアルコーン(支配者・頭目)と名付けて、ヘイマルメネーが必ずしもうまく作動しないということを強調した。デミウルゴスはそういうアルコーンの一人だった。
セイゴオ先生はグノーシス思想が、必然・運命・宿命がどういったものであるかを決めあぐねていると仰った。複雑な設定にしておきながら、宿命論や決定論から逃れられていないというのだ。とはいえグノーシスは、のちのちミルチア・エリアーデが古代宗教における「反対の一致」の妙と名付けたような「対」(シュジュギア)の認識をもって、混沌と秩序、必然と偶然などの反対の概念が、対決や隔離ではなく、プレーローマ(充満)による回復や救済の機会の持続につながるように仕向けてみせたのである。
ぼくもマンガを「造ろう」と躍起になるとダメなのだ。話やキャラクターを支配しようとしては駄目だ。こちらが作為的になるより、設定を膨らませていくうちに話が出来ていく点、どうやらぼくもグノーシスっぽいのかもしれない。
支配や管理は何の役にも立たない。機械や技術ばかりをありがたがって、代わりに手間暇をかけることを惜しむ社会は人心を荒廃させるだけである。ぼくの母が新たに働きだした障害者施設は24時間監視カメラが回っていて、ずっと以前から入居者におそろしいほどたくさんの薬をきっちり飲ませ、今はワクチンによる断種をしようと躍起になっているが、母が働き出す前にすでに自殺者を出した。監視するくせに施設の郵便受けの周囲は、ダイレクトメールやチラシが地面に投げ捨てられて汚れている有り様だった。雨に濡れドロドロに汚れた郵便物に、掃除のパートさんでも個人情報だからという理由で触ってはいけないという、管理者の作ったルールが罷り通っていたのだ。だが母たちは逆らって掃除をし、傍らに花を飾ることにした。管理者は「余計なことを」と毒づいたようだが、花を飾りだして以降入居者の誰も郵便物を投げ捨てなくなった。
ハンス・ヨナスがグノーシス思想の特色を「反宇宙的二元論」と言ったが、その二元論とは一元をめざす二元性なのだという。やはりぼくは陰陽和合を感じる。クルト・ルドルフさんはそのことを「グノーシスは古代の宇宙論を前提としつつ、ただしそれをまったく別様に解釈し、細部においていくつか新しい要素を組み込む」と説明した。
グノーシス主義の認識にとって、世界は隷属されたままのものであってはならなかったのである。もちろん現代のぼくたちだってこのままではいけない。ぼくたちにも別のプレーローマがあって、その組成にあたるアイオーンについてちゃんと認識すれば、覚醒や救済が作用するはずである。
たとえば何だろう。実のところ今回借りた本の中で三冊目の『ノーム』が一番おもしろかった。彼らの暮らしはSDGsよりずっと持続可能だし、造物主などよりずっとすばらしいものを身の周りにある材料から作り出していた。当たり前のように自然に対する責任感を持ち、贈与経済的であって、世界への理解と愛に満ち溢れていたのである。
モーセの起こした奇跡なんかより、ノームの生き方のほうがはるかに気高く奥深くユーモアがあることが、ぼくには涼風のように爽快だった。
夜の秋ノームの森に誘われ
反対の一致によって、偶然借りた本の世界が、必然になることだってあるのだ。