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グノーシス 異端と近代

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 千夜千冊1846夜、『グノーシス 異端と近代』を読んで思い浮かんだことを書いています。


 

 風流過差はグノーシスなのか。たしかに町田康さんや忌野清志郎さんのパンクは本当に媚びてない、屈しない、流血してる。ぼくは町田さんの猫シリーズで何度泣いたか(日本のはペット業界と畜産大手の作っている地獄に対する認識が甘すぎると思う)。椎名林檎さんの声はぼくのつくった歌の何曲かに似合っているかもしれないとも思う。

 

 ぼくのマンガはグノーシスなのだろうか。セイゴオ先生は「衝撃的なサブカルはグノーシスである」と仰ってくださっていたが、ぼくが自分で自分のマンガを衝撃的と言うのは間抜けだ。

 ただ、今まで気づかなかったけれど、たしかに『侍JOTO』は天ちゃんも阿武二も万吉も百井も、それぞれ武士と町人、徳川対羅ツ賀、侍対忍者だったりと、AとBの攻めぎあいの間隙からふいに出現する異端者だ。彼らによってAとBの関係が読み替えられている面もある気がする。

 

 プロのマンガ家を目指していたころ、ぼくは何度か作品のネタをパクられたのではないかと思うことがありショックを受けた。だからキャラクターの名前を転用されて、トラウマ的に発狂するかと思った。何も言ってないから家族は習慣的にドラマを見ていて、最近また今回も名前の転用がまた起こっていると知らされた。申し訳ないが吐き気がする。ドラマの世界では正義を謳っているようだが、現実に彼らのしていることには失望させられた。仕方ないのでぼくはドラマを絶対見ないように、音も聞こえないように、自分の生活時間を変えた。

 『髪結い伊三次捕り物余話』の宇江佐真理さんは、主人公・伊三次の名が、池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』に出てくる小者のの伊三次とかぶってしまったことを、何かの雑誌連載の中で詫びた。そのいきさつが『ウエザ・リポート』というエッセイにまとめられている。宇江佐さんは池波さんの「伊三次」が「伊佐次」だと誤解して、避けようとして一文字違いの「伊三次」にしたら同じになってしまったらしい。

 物語をつくる人間にとって、それくらいキャラクターの名前は大切なものだ。それを何度も何人分も転用するというのは、裁く法が無かろうと、世間にとってはどうでもいいことだとしても、ぼくにとっては無神経な行為である。

 

 真似とパクリは何が違うのか難しいけれど、先生曰く真似は学びであり、ぼくはそれには相手や作品へのリスペクトが必要だと思う。相手も真似されることを気にしていないか、良く思っているからこそコラボレーションが実現する。一方パクリは相手の気持ちや尊厳なんて気にしていない。ネタとして勝手に消費しているだけである。その中で一番卑劣な行為が、社会的地位が上の者、プロの作家や編集者が、無名の人々のネタを横取りして、あたかも自分たちのアイデアのように世に出し、加えてその人たちを前途を潰すことだろう。

 パロディをするにしろ何にしろ、まるっきり意図的に真似するなら、まず「こういう趣旨でこういうことをしようと思うのですが」と相手に伝えるのが礼儀であり、一部真似したり相手の何からヒントを得たなら、何をこういう理由で引用した、誰の何からインスピレーションを得たと、メディアを通じてでも告げるのが筋ではないかと思う。そういうことが出来ないというなら、意図的な引用など避けるべきではないのだろうか。

 

 今夜のお話のおかげで、ぼくはだいぶ気持ちが落ち着いた。どんなことがあっても小夜さんは小夜さんであり、鈴は鈴、米さんは米さん、万吉は万吉だし露黒は露黒、綾芽さまは綾芽さま。心の友たちミューズたちは、プレ・ローマのような場所に生きているのだから大丈夫だ。

 

 こんな風に一人ひとりの魂を救済出来うる思想なのに、グノーシスはわかりにくいものらしく誤解されやすいようだ。ぼくも今夜のお話にあったシュタイナーの「ルツィファー・グノーシス」とは何ぞやと思ったが、想像していたような怪しげなものとは違って、タブレット端末を配って教師をクビにするAI子供ロボット化コスパ優先教育なんかよりずっとましだった。

 

 ぼくの作品はタルコフスキーみたいに芸術的ではないから、そんなにわかりにくいとは思わないし、タンタロスにもなってないと思うが、もしかして自分で描いてるからそう思うのだろうか。たしかに上京した頃は、最後の雑誌社でも「(ストーリーが)なぜそうなるかが分からない。当たったら凄いけどリスクが高い」というようなことを言われた気がする。『侍JOTO』が今のカタチになったのは、その時の担当さんのおかげである部分が大きいので、彼には個人的には感謝しているが、結局当時はネームが通らず、生活費が底をついて3・11を機に帰郷した。

 無料でマンガを公開し始めたのは、どうしても描きたいからだった。また、無料で公開していれば、誰かにネタをパクられたとしても、他にただ純粋な読者として見てくれる人がいれば、その人の中には、ぼくのマンガが生きて残る気がした。

 

 14離の今月みんなで千夜千冊1519夜、ハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』を読んでみようということになった。ぼくも一応図書館で借りて読んでみている。今夜のお話によると、そのブルーメンベルクが『近代の正統性』(法政大学出版局)のなかで、「ヨーロッパの精神史はグノーシス思想との葛藤をもってしか語れない」と述べたのだという。

 

 グノーシスとは何なのか。ぼくは今まで型を使ってアウトプットをすることはあったけど、型を使って読むということを意識してこなかったように思う。『探求型読書』のおかげか、1779夜に紹介された『グノーシス 陰の精神史』のときより、今回はグノーシスの雰囲気のようなものを掴めた感じがする。先生がたくさんの例を挙げてくださったおかげでもある。

 

 先生の言われるように、ほとんどの世界モデルはAかBかのダイコトミー(二分法)による二択で出来ている。その時々でAとBが争って勝ったほうが採用されているように見える。けれど共産主義が国家資本主義であるように、「両建て作戦」が行われているだけで同じ穴の狢が「分裂と混沌」を演出し、格差こそが利益を作り出す仕組みを隠しているにすぎない。

 だったらこの見せかけの二項対立宇宙モデル自体に、反旗を翻してはいかがかというのが、ハンス・ヨナスの言うグノーシスの「反・宇宙的二元論」だ。「A、BorC」を「資本主義、共産主義orC」とすると、ぼくはその間に、セルジオ・ゲセルのエイジング・マネーや、リングなどのコミュニティ通貨システムがあるのではないかと思う。

 

 Oさんの「問題は世界モデルが摩耗していることなのではないか」という問いに対する先生からの応答が今夜のお話になっているように思われる。

 

 ぼくが不思議なのは、どうして未来の世界モデルというと、森や川や山が全くないビルだらけの景色や、核戦争だの人工知能対人間の戦いだのや、『1984』のような超監視社会しか描けないのだろうかということだ。

 おそらくそういう未来のほうが、金儲けに都合がいいのだろう。だからそういう未来を映画やゲームに投資して、多くの人にイメージを浸透させ、それ以外の選択肢が思い描けないようにしているのではないだろうか。だとしたら未来=高層ビルが果てしなく続く都市だとか、環境が破壊されすぎて地下や宇宙に移住するしかないとかいうイメージこそ、「完璧な都市or荒廃」「創造か破壊」「AorB」のプロパガンダだとは言えないだろうか。

 彼らはそのイメージを、人工災害やパンデミック詐欺やテロ詐欺などの破壊と、復興と称したや5Gデジタルスマートシティ化の創造としてマネージしている。

 

 そうではない未来を描いた、ぼくが知っている唯一の作品は『アナスタシア』くらいだ。アナスタシアの世界の未来は大きなビルに覆われていない。街はあるけれど有機的で、観光用のバスは走っているが、地元の人は馬で移動することもあるので、都会か里山か(高層ビルか自転車か)の二択でもない。両方がほどよく混ざっている。はてこんな景色をどこかで見たことがあるぞと思ったら、「大地の再生 結の杜づくり」の資料にあるイラスト(2枚目)にある緑に覆われた街だった。最近ぼくは一体どうしたらこんなorC世界が作れるだろうと考えている。

 今あるビルを壊せばゴミになるし、里山が無くなれば人間の生存にも関わる一次産業に必要な生物多様性が守れない。だったら取り組むべきは、今あるものを、どう壊さずに殺さずに活かすかではないか(メガソーラーや巨大風力発電や5G基地局は消えてほしいけど)。必要なのは編集、再編集を続けることだ。

 

 グノーシスは忘却という認識の欠落を覚醒に切り替えていくという。土地の神様への畏れや敬いの気持ち、杜の意味、祭りの大切さが忘れられてしまったという忘却の構造自体に、このままでは日本が滅ぶからなんとかしなければいけないという、自然と人、人と人との関係を取り戻すための覚醒の契機があるということなのかもしれない。

 マスコミや企業の中に働く人の中にも、そういうことを考えている人が、いないわけでもないことは知っている。また、色々なところで話し合いや意見のすり合わせが必要だという声が高まっているのを感じている。

 だけれど同時に、人殺しの犯罪者だらけの国会、嘘だらけの報道指向性兵器破壊されたままの故郷さらなるワクチン虐殺の画策脅かされる水源、教育、福祉、憲法搾取と管理が横行している今の日本の現状こそが地獄だと思う。



 誰か一人のメシアの復活など待っている場合ではない。あまりにも多くの人が、残念を抱えたまま死んだ。殺されたのだ。ぼくは世界解釈の変更を求め、足元から別様の可能性を展く編集をしたい。

 

 十薬の十字の光狂い咲け

 

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