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千夜千冊1779夜、大貫隆さん、島薗進さん、高橋義人さん・村上陽一郎さん編集『グノーシス 陰の精神史』を読んで思い浮かんだことを書いています。
グノーシスは、世界というものがそもそも欠けたものであることを認めた思想だったのだとセイゴウ先生は語る。そしてグノーシスは、世界が不完全だからと言って完全を目指すのではなく、むしろ完全や普遍性を誇るプラトン的世界観やキリスト教的世界観に大胆な注文をつけた。これは反世界主義に見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。
ぼくも世界というものは欠けたものがより集まってできているものだと思う。完璧とか、キレイさなんて目指したって仕方ない気がする。どんなに一見立派な建物を建てたって生々流転。そんなもの時と共に古びていくのだからレガシーなんてアホらしいと思う。だからまずハコモノ行政に注文を付けた。しかしぼくも「須崎公園の大木を守る会」も、単なる反○○主義ではないぞー。
ぼくは欠損を抱えている。またぼくはいつも遠ざけられているというか、少しズレていて、外に居るようなところがある。それがそれで良いと感じる時もあれば寂しいこともあるが、それがぼくで、だからこそできることがあるような気もしている。それが世界について語ることなのだろうか。
1995年に出版されたセイゴオ先生の著書『フラジャイル』は、「弱さ」というものに対しての世間の見方を覆した「フラジャイルな反撃」になっている。だが今宵先生はあらためて、もっと根底から普遍主義に対して反撃するなら、ゾロアスター教や一部の仏教や、ヘルメス知やマニ教やカバラやなどの、グノーシス知が入ってきてよかったはずだと仰った。
今夜のお話では2冊組の1冊、上巻の『グノーシス 陰の思想史』がスケッチされている。
ハロルド・ブルームによると「グノーシス主義こそは最初の、しかも最も強力な脱構築である」なのだという。脱構築と聞くと、ぼくの頭にはジャック・デリダやポストモダンが浮かぶ。脱構築の正確な意味は「二項対立の階層秩序を打破し、ずらし、差異を生み出し続けること」だが、広義には「ある対象を解体し、それらのうち有用な要素を使って、新たな、別の何かを建設的に再構築する」「ある対象に隠された、矛盾する(あるいは倒錯している)、無意識下の形而上学を暴き出す」という意味があるようだ。
I・P・クリアーノによれば、グノーシスの物語は「ソフィアの過失」や「無知蒙昧の造物主」などのトポスの要素を色々と入れ替えることによって、時空を越えて観念を生成できるシステムになっているという。
どういうことかと言うと、例えばこれを時空を越えて現代日本の須崎公園のことに当てはめると、「造物主」が誰かはご想像にお任せするとして、シンポジウムから導き出した建築計画の【問題点】や【まとめ】が、建設計画の社会的脱構築観念にあたることになる。つまりぼくは福岡市民100人のみなさまとともに脱構築、または「フラジャイル・グノーシス」ともいうべき領域を開いたと言えるのかもしれない。
それにしても世界各地の神話に「倒立した宇宙樹」があるとは知らなかった。グノーシスのプレーローマには、このひっくり返った世界観が原型にあるのだ。
ぼくは運動音痴で逆立ちができないのだが、何故だかグノーシスの解釈が契機となって、今までずっと分からなかったことが、最近徐々につながってきているように感じている。
モーセについても、近代的な個人主義による発想からすれば、奴隷たちを救った「英雄」とみなすのが普通だろう。しかしぼくはモーセはユダヤの民ですらなく、ファラオの実の弟だったのではないか(捨て子というのは作り話だはないか)と思う。モーセは神(ファラオ)になりたかったけどなれなかった。そこでユダヤの人々を勝手に強制連行して、自分個人を始祖として崇める民族宗教を作り出したのではないか…というのが最近のぼくの考えだ。だからユダヤの人々は起源的にその多くが被害者で、支配階級のごく上層部(モーセの黒聖書の教えを受け継ぐ権力者)が、ユダヤ民族全体のイメージを悪くしているのだと思う。
グノーシス神話には、インド哲学のウバニシャッドやナーガルジュナ(龍樹)の中論のように否定神学や哲学の不可知論のような特徴があったり、作り話と虚偽を平気で内包してしまうミュトス(神話がもつ筋書と文法)があったりする。また救済神話にも、自分たち(人間たるもの)を異邦人(クセノス)とみなしたり、万物の生成が至高神によってでなく、一人の女神の個人主義的な行いから生まれた造物神によって成されたとみなすという、普通の神話と比べるとかなりねじれた特徴がある。これらの特徴から、グノーシスは本当の神的起源(プレーローマ的充足)の自覚と、そこへ回帰することが大切なのだという救済観をつくりだしたのだ。
このようなグノーシスの救済観は、この世を一切皆苦とみなして、涅槃を目指したブッダの仏教と似たところがあるような気がする。
ぼくは陰謀論に詳しくは無いのだが、一口に陰謀論と言っても色々で、特に宗教に関するものはその中でもごちゃごちゃ細かく分かれている。だがたいていフリーメーソン、イルミナティ、グノーシス、ユダヤ教、カバラや黒魔術、サタニスト(悪魔崇拝)はカルトとして一緒くたになっていて、一部では神道や日本の天皇家も悪魔崇拝の仲間にされてしまっているようだ。
ぼくもまだ整理がついてないので上手く言えないが、神道や天皇家までをサタニストと一緒くたにしてしまう人は、宗教の歴史の流れと、現代の権力者共同謀議(コンスピラシーセオリー)を分けて考えてみたらいいのではないかと思う。
古代社会ではどこの共同体だってたいてい生贄を捧げていたのだから、遠い先祖という意味では、ぼくたちの祖先はみんなそういうことをしてきたはずだ。生贄の儀式をしていた悪い民族と、していない良い民族がキレイに分かれるワケじゃないだろうし、そんなことは調べようが無い。問題は現代においてもその儀式を、もっと残虐な方法で組織的にしている連中がいて、彼らが人口を削減し、地球を破壊し、世界を支配しようとしていることだ。
多分古代エジプトと日本の天皇家は何らかの関係でつながっているのだろう。しかし現代の皇室はサタニスト勢力に政治的に利用されているだけだとぼくは思う。政治的な権限が無いのだから、どんな服装をするか、どんなポーズをとるかだって、象徴として保護されるのと引き換えに周囲から要請される決まりに従うしかない。それでも皇室の方々はみなが遊んでいる祝日、日本古来のしきたりを守って、国民のために祈りを捧げることを仕事としている。その天皇家が古代エジプトと関係があるからと言う理由で悪魔崇拝だとみなす人々は、こうした地味な事実や歴史的な変遷を知らないか無視しているために多くの誤解を生んで、むしろロスチャイルドなどが計画している「民族の固有文化の破壊」に手を貸してしまっている面があるのではないだろうか。
プラトンが「世界は理性的な創造によって出来たのだ」とみなすのに対し、グノーシスは「世界は無知な暗黒の造物神」から生じたものなのだと主張する。先生はどちらにも軍配は上がらないと仰った。ぼくは今夜のお話を読んで、この世界には美しい創造やおもしろい創造もあれば、無知によって作られるモノもあるのだろうと思った。
問題は摂理(プロノイア)と宿命(ヘイマルメネー)が調停できるのかどうかだ。ぼくは初期ストア派の「自然宇宙の合理性からの既決として決定論を維持しながら、一方で人間を無為や怠惰や絶望に陥らせることなくその尊厳の根拠としての自由を擁護する」という考えに共感する。また、人間一人ひとりの活動や社会的な運動においても、エピクロスのように自由意志を認めて「逸れる活動」をすることが大切だと思う。「遊び」がないと良い創造は生まれない気がする。
グノーシスはマニ教やゾロアスター教とも似た者同士の習合関係にある。マニやゾロアスター、ズルヴァン教などは光と闇の対比が明確であるところが共通している。
一方でグノーシスは、造物主・ヤルダバオートが12人の天使(黄道12宮)と7人の天の支配者(太陽・月・5惑星)を創成したことにしていて、星辰界至上主義には批判的であったようだ。たしかにぼくも何でもかんでも星の動きのせいにしたり、つねに占いやカバラの数字と物事の関連を気にしてばかりの様子には、時々運勢やツキが気になりすぎる自分も含めてうんざりすることがある(笑)。
しかし『ユダヤ神秘主義』の著者、ゲルショム・ショーレムは、カバラの本来の意味が「伝承」であることに注目し、中世カバラ思想はユダヤ教の伝承力の中にひそんでいたものの露出であるとみなした。世界は10個のセフィラが順に流出して、これらがしかるべき位置につき、相互の関係力を発揮しあうことで完成系に向かうという、セフィロート(スフィロット=生命の樹)をめぐる説がカバラとして露出したというのだ。ショーレムはこのセフィロートがグノーシス主義のプレーローマに、スフィラがアイオーンにそれぞれ相当するのではないかと推測した。
セフィロートと言えば、サブカルで有名なのは『FF7』のセフィロスだが、上記の説明を聞くと、セフィロートのシステムは南総里見八犬伝というか、個々の必殺技を持った戦隊ヒーローの助け合いのようでもある。例えを社会に移すと、人がそれぞれ自分の身近な場所からネットワークを生かして活動していくことで、ひとつの運動全体が発展していく様子を表しているのだろう。
グノーシスと黙示録の関連はどうなっているのか。先生はクラウス・コッホの『黙示文学の探求』を参考に説明している。グノーシスがナグ・ハマディ文書に黙示録めいたテキストをのこしたのは、天変地異や光と闇の闘いの後に栄光がおとづれるという黙示文学の話の流れが、苦しく生きづらい世界を変えたいと願った、当時のグノーシス主義者の心境に合っていたからではなかろうか。
この他にも、グノーシスはさまざまな思想の動向に出入りしていたようだが、ぼくが今夜一番おもしろいなと思ったのがカタリ派(Cathares)だ。キリスト教色の濃い民衆運動でありながら、「神」と「無」の両立を主張する二元論に依拠し、神の一元性、三位一体、幼児の洗礼、免罪符、階層的教会組織を否定したのだから驚きである。
少数の完徳者(禁欲者)と比較的ゆるやかな信仰をもつ信徒による運動体が、清浄なるものを重視して、現世から一挙に離脱して彼岸(天国)に到達しようとする…という動向は、ブッダの祇園精舎のようである。先生の言われた「天使主義的飛躍」というのが、仏教なら「菩薩道へと向かうこと」なのだと思う。
ルネサンスになるとスコラ哲学や正統キリスト教に代わって、観測知の科学とともにヘルメス主義やグノーシス主義が脚光をあびるようになった。特に注目したいのがパラケルススだ。
パラケルススはそれまでの、古代以来の四体液説から脱却し、マクロコスモスとしての宇宙の特色は、ミクロコスモスとしての人体になんらかのかたちで投影しているとみなし、錬金術や占星術がもつ「解読力をいかした人体宇宙観」を確立したいと考えたのだ。
パラケルススは、医師はスパギリスト(spagyrist 神秘に通暁する者)であるべきで、天体・地質・鉱物・薬草に詳しくなければならず、そのうえで人体にひそむ霊的な自然治癒力の可能性を追うべきだという生涯をおくった。まるでTさんや増川いづみ先生そのものである。となるとぼくも村上陽一郎さんと同じように、Tさんに知的アナーキズムの匂いを嗅ぎ付けているわけだ。
そのパルケラススに影響を受けたのがグノーシスの継承者、ヤーコプ(ヤコブ)・ベーメである。ぼくは最後の上京として所沢に住んだころがピークとして、その前後数年間が一番不思議体験をしたころだと思うが、ベーメは12年にもわたり神秘体験に見舞われた(ぼくは最近は普通の体験とと不思議体験の違いがあまり無いというか、不思議な出来事が普通になっている)。1617年にこうした神秘体験にもとづき主著『アウローラ』を執筆すると、案の定その内容がルター派キリスト教の教義を脅かすものとして攻撃されたようである。
ベーメ自身はキリスト教について批判するつもりはなく、それよりも、世界は誰でも霊感によって語りうる(感じうる)のだということを伝えたかったようだ。
陰謀論では薔薇十字団も有名どころだが、実のところ薔薇十字団は少数者の宣言や偽書によって世に伝わっていたもので、必ずしも秘密結社としての活動をしていたわけではないらしい。
そしてやはりトリはフリーメイソンだ。竹下節子さんの「フリーメイスンとグノーシス主義」によると、記録にのこるフリーメイスン(石工組合)の記録は、1390年の聖堂建築同業組合の活動だ。もっと大昔からあると思っていたので意外だった。石工職人たちの組織だとは聞いたことがあったが、ゴシック建築にかかわる石工だとは今夜がはじめて知った。
フリーメイスン憲章は1723年に起草され、5年後にフランス・ロッジが開設された。フランスが最初と言うのも意外だ(てっきりイギリスと思っていた)。メイスン憲章には、フリーメイスンの中ですべてのキリスト教を神秘主義的に和解させようという意図があったらしい。その後、マルティヌ・ド・パスカリが『存在の再統合論』を試み、メンバーの中のハイグレード派はそこにカバラの解釈力やヤコブ・ベーメの思想をとりこみ、カリオストロ伯爵がエジプト式のグランド・コプト典礼を提唱したときは、各地にさまざまなロッジが誕生した。
ぼくはイルミナティとフリーメイソンの違いとか関係も、実はよく知らない。本当はあまり興味が無いのかもしれない。陰謀論ではたいていどっちかか、もしくは両方がフランス革命をはじめとする、歴史上のさまざまな革命や戦争を引き起こしてきたと言われている。
フリーメイソンやイルミナティのしてきたことの一体何が問題なのか。簡潔に言うとしたら、彼らが何を信仰していようと、また彼らが資本主義であれ共産主義であれ、階級組織ネットワークによって、人間を金(マネー)や権力の奴隷とする社会を作って、地球を破滅に導いていることだろうと思う。つまり「友愛」を掲げてはいるが、実際は「力による支配関係」で成り立っているということ自体が大きな問題なのだ。
またまたコロナ緊急事態詐欺で図書館が閉まってしまった。そして今年も地域の小さなお祭りは中止だった。ぼくらは税金を払わされるばかりで、公園や図書館など公共施設を利用する権利、地元の伝統文化を継承する機会までもがどんどん奪われている。これらの点から見ても、(フリーメイソンの上位に位置するイルミナティを使って)NWOを目指す連中による、文化の破壊や人類奴隷化および人口削減計画は陰謀論でも何でもなく、はっきりと現実の社会の身近な場所おいて進んでいる。図書館が閉まる前に鈴木大拙さんの『禅』を借りれたのも何かの縁なのだろうか。
鈴木大拙さんは、力の行使はつねに専断・独裁・疎外に向かうと語り「力の観念は、人格や相互依存、感謝といった相互関係の心を斥ける。われわれは科学の進歩、たえず改善される技術、ならびに工業化一般によっていかなる恩恵を引き出そうとも、みながひとしくその恩恵にあずかることは許されない。なぜならば力はわれわれ人類同胞の間にひとしく恩恵を分配しないで、それを独占しがちだからだ」と見抜いていた。
またこうも言っている。「力とは人を物に変えるちからであると定義したのはシモーヌ・ヴェイユだったと思うが、自分は愛とは物を人に変えるちからであると定義したい」「力は愛と対立するが、愛は力を抱擁する」と。
姪っ子のオンライン授業の様子を見る限り、政府と通信大手企業が進めるGIGAスクールは学校教育の単なるクイズ番組化だ。教師や医師・看護師の人員削減と人口削減はリンクして、人との触れ合いだけでなく「人の存在を必要としない社会」を作っている。また、IOTやICTによる技術革新はロボット(機械奴隷)を人に見せかけて、人をロボット化・商品化する社会を作り出している。そんな力など誰も必要としていない。政府と大手企業や投資家が自分たちの独占的な金儲けのために普及させたいだけだろう。5G、ワクチンID、グラフェン入り最新スマート何ちゃら。そんなものは全くのゴミだ。ぼくの注文は「あんたらが人々から奪ったものを人々に、地球から奪ったものを地球に還せ」ということである。
もしかしたら、編集奥義を本当の意味で極めていけば、NWOの計画も脱構築できるのかもしれない。
反撃の号砲のごと揚花火