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サブカルチャー

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 千夜千冊・1735夜、ディック・ヘブディジさんの「サブカルチャー」を読んで思い浮かんだことを書いています。



 多分そういう人は結構いるのではないかと思うのですが、僕も「サブカルチャー」とは、伝統文化などに対する、アニメやマンガなど今時のモノを指していう言葉かと思っていたので、ちょっと意外でした。


 しかし日本ではもう「サブカルチャー」という言葉は、主にマンガやアニメを指すものとして使われることが多いので、今から再定義し認識を改めるというのも大変なのかもしれませんが、海外などからすると、日本でサブカルチャーと呼ばれているものはポップカルチャーと言った方が合っているのかもしれないですね。


 いったい日本のサブカルチャーの中で、何に本来のサブカルチャーとも言えるような「記号のゲリラ戦」があるだろうかと考えたら、僕がサブカルチャーに詳しくないせいか「AKIRA」しか思いつきませんでした。

 それ以外に、今夜新たにサブあるいはカウンターカルチャーと呼べるものがどういうものか思い浮かべてみると忌野清志郎さん、田中泯さんの半農半踊りや、樹木希林さんの始末の付け方、暴走古希の先生の遊び方やたのしみ方がそうなのではないかと思います。


 僕は自分が「すれすれぎりぎりきわきわ」をしているとは思ってなかったのですが、今夜のお話を読んでいると、ちっぽけではあるものの、何やらちょっとばかりはそういうところがあるのかもしれないと思いました。とにかく僕はメインカルチャーではないということは確かです。


 僕は今夜のお話に登場するヒーローヒロインの、恰好や行為の何がカッコイイのかはよく分からないのですが、彼らに漂う匂いというか、空気には覚えがあるのです。


 それは僕の小学校のクラスメイトだったN君という問題児の醸し出していた空気。社会の矛盾に気づいた僕の中に燻っていた反抗期の空気。今はもう絶滅してしまったガキ大将達の持っていた「子供なりの仁義」みたいなものだと思います。


 それが「日本人の特徴であるがゆえに何かができる」かどうがまでは分からないし未知数ですが、それは今でも僕らの中にもちょこっとずつ生きていて、それだけは失くしてはけないような気がするのです。


 ただしかし、そういったヒロイズムを、所詮「マンガやアニメの中だけのもの」、単なる一時的な現実逃避のための装置として、莫大な利益を生み出す商品を生産しては消費されて、結局権威側へ回収されているだけでは、作品の中で何度世界を救ったとしても、現実の世界は何も良い方へは変えられないか、どちらかというと何も知らず自分とその周辺だけ利益を貪っているうちに他者を傷つけたり苦しめたりして、世界を地獄のようにする方へ加担してしまうのではないかという気がしています。


 だから…か、今夜は先生の「越境」に賭ける気持ちが、響きました。


 僕たちは自分たちが分かっているつもりになっていることや、常識をこそ越えていかなくては、出会えないし、分からないし、変わらないし、生み出せないのではなかろうかと思いました。


 …あれ、そういえば「侍JOTO」の歌のなかでそう言ってたな(笑)。

 さて、僕の小さな大数寄に何ができるかな…。

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