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ダブル・ヴィジョン

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1811夜、ノースロップ・フライさんの『ダブル・ヴィジョン』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1811.html  先日ぼくの遠くて近い親戚のおじさんが88歳で亡くなった。伯母さんの旦那さんの、さらにお姉さんの旦那さんなので血縁は遠いが、小さい頃から盆や正月を一つ屋根の下に集まり共に過ごしてきたという意味ではとても近い関係のおじさんだ。

 おじさんは、ぼくら身内の間では、昔飼っていた犬の名前が「ケン」だったという理由で、「ケンのおじちゃん」を略して「ケンおじちゃん」と呼ばれていた。

 亡くなってはじめて、ぼくはケンおじちゃんの顔が『侍JOTO』の吉野さまにそっくりなことに気づき驚いてしまった。なぜ今まで気づかなかったのか不思議で仕方がない。

 今夜の千夜千冊でセイゴウ先生は、今のご自身と同い年の78歳で亡くなったノースロップ・フライの最後の本をとりあげた。先生がケンおじちゃんから丁度マイナス10歳というのも不思議な感じがする。

 フライはその生涯を通じてウィリアム・ブレイクを研究し続けて来た。タイトルの「ダブル・ヴィジョン」とは、ブレイクが世界を描くために使った二重一対の暗示(隠喩)のことである。

 先生はぼくたちの想像力には「型」(one)と「対型」(another)のダブル・ヴィジョンが光を放ちながら先行していると仰っている。ブレイクは「自分の前のもう一人」であるフィギュアやアバター(神や如来や鬼)などの「代」や「別」を想定することで「インゲニウム」(ingenium)という天賦の才能のエンジンを駆動させてきたらしい。天賦状態のエンジンが「型」と「対型」を持っているのだ。

 はて、ぼくがイシス編集学校で、師範代という「型」に入って指南をしていた時、まる吉先生なる猫のキャラクターを生んだのは「対型」のつもりだったのか。まあ、ぼくだけではなく、編集学校の師範代たちは、ある時期が来ると仙人になったりオネエキャラになったり世話焼きのオカンになったりするのだから、さして驚くことではないのかもしれない。

 編集学校の外ではどうだろうか。先生の真似をして我田引水してみると、ぼくもマンガを描いているから、しょっちゅう「もう一人」な気もする。もう一人を想定しているときは、きっと何かを複合的かつ輻湊的引きずったり、何かを組みこもうとしているのだ。だから吉野さまには、ケンおじちゃんをはじめとした様々なヴィジョンが出入りしているはずなのだ。

 マンガを描かない先生は、どうやって「自分の前のもう一人」を継続してきたのか。今夜のお話では三つのコツがあったことが語られている。どれも編集をしていくうえでは欠かせない心掛けだ。

 三つ目の”何かが「自分の代わり」だと思えるように仕事をする”というのは、編集学校で師範代や千離衆がセイゴオ先生=松岡校長の「代」であることに由来する。  「代」としてぼくたち14離の仲間は『10分de千夜』という千夜千冊の勉強会をしている。先月はOさんの特別ヴァージョン『60分de千夜』が開かれ、内容は0592夜『明六社の人々』だった。     明六社の時代の1860年代頃の白人は、黒人奴隷を木に吊るして拷問するというようなことをよくやっていたようだから、ぼくはOさんと異なり、アメリカに渡った木藤市助は、国力の差などに絶望して首を吊ったのではなく、白人と喧嘩してリンチに遭って殺されたのではないかと思う。しかしOさんの歴史的背景と登場人物一人ひとりのコンパイルは細部にわたっていた。そして後半のQと、特に「資本を効率的に回す運動に寄与するための教育が、国家の力を小さくし続け、国家が弱体化した反面、環境や、倫理や人道的行為といった道徳も、商品化しているのではないか」という推測には、ぼくも脳汁がコトコト煮立った。  離の仲間や編集学校の師範・師範代にはスゴイなぁと思って模倣したい人がたくさんいて、いつもありがたいものである。  先生はノースロップ・フライやブレイクとは異なり、ダブル・ヴィジョンがむしろ編集的一般意志にあてはまるはずなのだと強調する。先生は、今や小説やマンガや映画やアニメだけが麻痺させていない想像力を仏教こそが引き取って、宗教集団の直面している状況を突破して行けるのではないかと考えており、いつかその考えをまとめる予定なのだという。  最近の仏教といえば、ぼくはケンおじちゃんの通夜に来たお坊さんとおじちゃんが、かつては一緒に温泉に行くほどの仲だったというのにも驚いたが、そのお坊さんの読経が歌っぽい調子で、言葉も平易な現代語にアレンジされているのにも驚いた。ぼくは慣れなかったけど、親族には好評だったようだ。   ケンおじちゃんは親父の古くからの兄貴分で、歳をとってからもずっと親父のことを○○坊と呼んでいるのがぼくにはおもしろかった。満州帰りだったなんてお通夜ではじめて知った。

 自転車で近所をぶらぶらするのが趣味のケンおじちゃんは、吉野さまみたいに高貴な身分ではないし、優雅だったりはしない。しかし口数が少なく、いつも子ども達の様子に、にこにこと目を細めてをいる印象で、ぼくらの前では一度も怒ったりしなかった。そんな人柄に、眉や鼻の形ばかりでない吉野さまとの共通点を感じる。


 プロの漫画家になることなく落ちぶれ、一時は引きこもって、それでもマンガを描きたくて、「稼ぎ」の仕事はバイトをしているだけのぼくは、長い間周囲に後ろめたくて、加えてコロナ詐欺政策のせいで親戚と疎遠になっていた。けれど通夜の後おじちゃんの奥さんと言葉を交わす機会があり、「笑顔しか思い出せないです」と伝えると、おばさんは少し潤んだ目を向けて「来てくれてありがとう。来てくれて良かった」と何度も言ってくれた。


 翌日ぼくはバイトをしながら、今年亡くなったWさんとケンおじちゃんに対する悲しみの違いについて考えていた。Wさんがワクチン接種によって亡くなった時は、政府や軍産企業に対する怒りと、悔しさや悲しみから涙が出たけれど、ごく穏やかなケンおじちゃんとのお別れは、一人になった時、じんわり人生に対する切なさや愛しさが湧くようだった。

 そんなことを思いながら人手不足の職場を這いずり回って、皿を洗ったり満杯のゴミ袋を台車に山積みにして運んだり、食い散らかされた物が落ちて張り付いている床を磨いたりしていると、ゴミ箱の上にお客さんが忘れたか置いて行った缶ビールがあった。Wさんの好きだったメーカーの缶ビールだった。お客さんはわざわざ取りには戻らないので、お店の側で捨てる前に貰って帰ることにした。


 社会の問題は問題として、これからも考えていかなければならない。家族や友達を殺されたことに憤るのは人間としての当然の気持ちだ。


 一方で故人についての記憶が「それだけ」になってしまうのは虚しい。だから編集工学では情報を一旦「わけて、あつめる」それから「つないで、かさねる」。

 一連の出来事から、ぼくはWさんに、Wさんのこともケンおじちゃんと同じようにあたたかな面影としていいんだと言われている気がした。そうだ、きっと課題と思い出の二重一対にしてゆけばいいのだ。まるでWさんからの、時空を越えた指南である。


微笑んで銀漢渡るもう一人


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