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ディオニューソス

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1774夜、アンリ・ジャンメールさんの『ディオニューソス』を読んで思い浮かんだことを書いています。

本編の内容が網羅的に充実していて、どうもセイゴオ先生からの今夜のお題(?)は「歴史的現在に立って世界観の特徴を説明すること」のように感じられる。

 陰謀論マニアの(というほどでもないけど)ぼくにとっての、歴史の中にあるかもしれない「別様の可能性」とは、NWO(新世界秩序)を目指すグローバルエリートによる悪魔崇拝の起源だ。黙示録に依拠したワクチンなどによる人口削減と、アドレノクロムの採取などの児童虐待・殺人をする悪魔崇拝儀式とはどう関連して、どこから出てきたのか、かなりごちゃごちゃしていている。

 どうやら現代の悪魔崇拝主義者の中では、サタンとディオニュソスのイメージが混ざっているように思われる。これを解きほぐすには、まず「ディオニュソスとはどのような神なのか」を知っておいたほうがよいのかもしれない。

 ディオニュソスという外来神が古代ギリシアに君臨していたこと、またそのディオニュソスの祭祀のなかで古典ギリシア劇が誕生していった理由を説明しようとすると、ニーチェの見解に引きずられてしまうものらしい。ギリシア悲劇の本質をアポロン的な理性とディオニュソス的な野生の対比で解明しようとする図式だ。

 セイゴオ先生はディオニュソスはもっと多重的役割を担ってきたはずだと思ってきた。その役割はどんなものだったのか。謎に答えてくれそうなのが、楠見千鶴子さんの『ディオニュソスへの旅』(筑摩書房)である。

 ディオニュソス(バッコス)はもとは大地を潤す植物神だった。それがなぜ葡萄酒に特化したのか。ぼくは単純に今も昔も、お酒というものが作り出す精神状態が特別だから、また醗酵するの神秘がお酒を神聖な飲み物にしたたからではないかと思う。

 ディオニュソスはたいてい踊り狂うマイナス(Maenas)という女性たちを従えている。マイナスとはディオニュソスとは切っても切れない憑依者たちのことらしい。酔っぱらいとみなすこともできるが、ディオニュソスは各地でマイナス(信女)たちの歓待をつくりだして、その場をオルギア化していった。まあ宴会だ。

 ではディオニュソスには「村」(故郷あるいは原郷)はなかったのだろうか。そんな気がする。日本の古い神々のほとんどが来訪神であるように、この神は遍歴し、村々がお酒でもてなすような豊穣の神・酒の神だったのではないだろうか。

 ディオニュソスがゼウスの子で、アポロンと腹違いの兄弟だという話は、日本の国譲り神話同様、支配者集団(ゼウス側)が被支配者集団の神話を取り込む過程で作り出されたのではないかと思う。そうなると今夜のお話から、ぼくはディオニュソスの母はもとはデメーテル(大地母神)で、後々国譲りに合わせてセメレという女性へと変えられていったのではないかという気もする。

 ディオニュソスを祭神とする催しが、とくに田舎の祭りではファロス(木製または青銅の男根像)をモチーフにしていたというくだりも、男女の交合を模した日本各地の奇祭を連想させた。ひょっとしたら本当はディオニュソスはデメーテルとペアの、道祖神のような神だったのではないだろうかとも思えた。


  アテナイの英雄テセウスに置き去りにされた王女アリアドネを、ディオニュソスが救うように妻としたという話は、ディオニュソスの祭りが即興のヒエロス・ガモス(聖婚の儀)になりえていたことを暗示しているのかもしれない。日本でも昭和初期ぐらいまではお盆祭り(盆踊り)が男女の出会いの場だったことは有名な話だ。ギリシア各地の女性たちがディオニュソスに託して、普段抑圧されているヴァイタリティを発散していたという伝承は、ディオニュソスにまつわる一面的で忌まわしいイメージ、または酒神バッコスとしての楽天的なだけのイメージのどちらも払拭していく。

 今夜のお話から、ぼくはディオニュソスはなんとも牧歌的で、日本の古い神々とも親和性が高いように感じられた。


 そのディオニュソスの祭りがどうして悪魔崇拝儀式のルーツとなっていったのか。今夜セイゴオ先生の提示された見方とは別に、ぼくはそこにはルネ・ジラールの言う『世の初めから隠されていること』があったのではないかと想像する。

 とはいえ参考書は先生の書かれた『擬「世」あるいは別様の可能性』だ。『擬』で紹介されているジラールは、その著書『欲望の現象学』や『暴力と聖なるもの』で、どんな共同体においてもどこかで暴力が使用され、そこには犠牲と復讐がおこってきたことをあきらかにした思想者である。共同体は犠牲や復讐の理由を隠蔽することによって富を蓄え繁栄してきたのだ。

 また彼の『世の初めから隠されていること』『身代わりの山羊』によると、暴力と犠牲の奥には必ず「横取り」があったはずだというのだ。共同体の物語には「誰が何を、誰からどのように横取りしたか」が隠されているのである。

 支配者である中央側は、ディオニュソスを祀っていた人々から何を「横取り」したのか。

 権力者たちはディオニュソス的な民衆の祭りを、表向きは「そんな乱痴気騒ぎは許さん」という理由や「悪神・悪魔を奉じる祭りだ」という言いがかりによって悪者扱いし弾圧・禁止する一方で、特権的に自分たちはディオニュソス的な祭りの要素を取り入れて模倣し、ローカルな固有文化のモデルやエネルギーを「横取り」したのではないだろうか。

 その例として、ぼくがなるほどなと思ったのが魔女狩りや魔女裁判だ。当時の大衆はマイナス(信女)のような女性たちをカルト扱いしていたが、『魔女への鉄槌』に関する記事に目を通すと、むしろ権威のお墨付きをもらって女性たちを裁いていた異端審問官たちの方が、性犯罪者や人殺しだということがよく分かる。

 イルミナティは祭神をディオニュソスから悪魔にすることによって、山羊ではなく子羊(人間の子供)を生贄にすることを精神的に正当化しているのではないかと思う。時代を経て儀式が代理化・組織化したのが、現在のペド組織による幼児誘拐やアドレノクロムの採取のための虐待と殺人、ハンドサインなどに見られるネットワークなのだろう。代理化・組織化するには金と権力が要るから、悪魔崇拝とそれらはセットになっていったわけだ。

 ただ、ぼくはセレブやエリートによる悪魔崇拝とは、単なる強欲の言い訳みたいなものだと思っている。つまりサタンを信仰しているから子供を虐待し生贄に捧げているのではなくて、性的虐待に伴う興奮や快感、美容(見た目)や健康(永遠に生きたい)という自分たちの下劣な欲望を満たすためにやっているあさましい行為の言い訳に、悪魔崇拝を持ち出して「その気」になっているだけだろう。

 もし本気で悪魔を信じているなら、死後悪魔が自分たちをお仲間とみなしてくれるなんて思っているなら大間違いだ。悪魔崇拝者は子供を殺すと悪魔が喜ぶと思っているらしいが、悪魔はその行為によって悪魔崇拝者が自分の魂を汚していることを喜んでいるのだろうとぼくは考える。なぜなら、子供たちの魂というのは悪魔のものにはならず、まっすぐ子供たちのための天国へ送られるからだ。ジャンメールさんによると、死者をあの世に送るために善意によってその道行を守護するのが本来のダイモーン(daemon)の役割ということだったが、ぼくは何故だかこの役割を3、4回体験させてもらったことがある。

 地獄に落ちて本当の永遠の贄になるのは、子供たちではなく悪魔崇拝儀式をやっている彼ら自身の霊魂なのだ。だから「すでに知っている」のに金や出世のために、悪魔崇拝をしている組織の事業に加担して、ケムトレイルしかりワクチンしかり、自分の行いによって魂を貶めてる人間こそ、死後肉体が無いにも関わらず自分たち触知感覚が鮮明であることに、不幸にもさぞや驚くことになるのではないかと思っている。

 この世のほうの問題のひとつは、人々のマニア(熱狂)やオルギア(騒擾)のエネルギーを浄化するポイエーシスの場が「横取り」されたことだと思う。演出家・鈴木忠志さんに擬いて、社会に巣食う病気の暴露に結びつけてみるならば、今日も古代と全く同じことが、コロナ詐欺とオリンピックによって起こっていると言うべきなのか。スポーツが悪いわけではない。むしろ体育祭や文化祭を子供たちに返せ、そしてニューノーマルとマスク虐待をやめろと言いたいところだ。


 今起こっていることは、外国人投資家のための「日本最終処分セール」。医療・食・資源・土地・人権・生命の叩き売り、大安売りだ。オリンピックは史上最高にショボいものになる可能性が高いが、盛り上がって人が集まれば、連中は5Gの人体実験や、人工地震などのテロを行うのではないだろうか。どっちにしろNWOの『1984』みたいな超管理社会を目指すグローバルエリートたちは、ぼくたちの国や文化を破壊するために「25カ条の世界革命行動計画」の指針に沿ってるようである。こんな守銭奴たちが仕切ってる悪魔の祭典などには、総スカンを喰らわせてやったらどうだろう。金になるぶんゴミになるだけの虚飾など必要としないで、自分たちなりの祭りをやるほうが、きっとおもしろい。


 なんだか今回は掲載後すぐ次のネームが出来上がってしまった。もう原稿の下描きに入っている。きっとぼくにはぼくの複式夢幻能がある。


ダイモーンの風と戯る川施餓鬼

オルギアを飲み吾も行く魂祭り

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