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ネガティブ・ケイパビリティ

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1787夜、帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ─答えの出ない事態に耐える力─』について思い浮かんだことを書いています。

 深谷花目付の喋り方、言われてみればラジオのパーソナリティそのものだ。なんで気づかなかったのだろう。本業が美容師であることのほうばかりに気がとられていた。それに雰囲気、メリル・ストリープに似てると思うのはぼくだけだろうか。

 「花目付」というのは、ぼくが今学んでいるイシス編集学校の師範代(コーチ)養成所である「花伝所」の、教頭先生(みたいなもの)のことだ。イシスにはたくさんのユニークな人、知的探求心のある人が集まっているにしても、ジョン・キーツの『エンディミオン』の千夜はぼくも印象深かったけれど、その「負の包摂力」から、T別番と同じく新概念をつくり出しておられたとは驚きだ。

 花目付は「ネガティブ・ケイパビリティ」(negative capability)=「負の包摂力」を「エディティング・ケイパビリティ」と読み替え編集したのである。

 もうひとつの驚きは、今夜のお話の著者の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんについてだ。お名前はどこかで聞いたことがあったが、まさか福岡でメンタル・クリニックを開業しているとは知らなかった。

 

 帚木さんはあるときアメリカの精神医学雑誌でネガティブ・ケイパビリティの特集を見て衝撃を受けたそうだ。

 今の世の中、ポジティブであることが健康で正しいというのがすっかり普通になっているが、ネガティブ・ケイパビリティを精神医学に採りこんだウィルフレッド・ビオンや、それに共感した帚木さんは、ポジティブであることを強いるような社会のあり方が、かえって「鬱病」などのさまざまな精神疾患をつくっているのではないか推測した。研究の末、「負」や「傷」に付き合えることのほうが、かえって認識や表現を彩り豊かにすると思い至ったのである。

 ビオンは『注意と解釈』で、われわれは何が自分の「自己達成」で何が「自己代用」なのか混乱しているのではないかと世に問うた。

 この混乱は、ポジティブなアイデンティティを追求することが生むもので、度が過ぎるとなにもかもを自分の「リア充」に利用したくなってくる。ポジティブな才能を獲得することや、自分の欠如ばかりが気になって不安だらけなのだ。仕方なく不安を消そうとしても、その行方(ゆくえ)が「不安の解消した100点満点の自己達成」なので、苦しいばかりである。

 ビオンは、現代人はむしろ多少の疑念をともなってもいいから、不確定な情報のまま言葉のやりとりを進めながら、お互いの心を照らし合えばいいのではないかと考えた。


 ビオンはしばしばモーリス・ブランショを引用した。ブランショには「性急な答えは質問を不幸にする」あるいは「つまらない答えが好奇心を殺す」という編集思想があった。

 問。ぼくがデジタル化を推進する人々に問いたいのは、5Gタワーや海底ケーブルや衛星などの大規模な設備を作って、それを維持していくとして、そのための資源はどこから略奪するつもりなのかということだ。

 その略奪を正当化するために、いつまで嘘をつき、自分たちの行いと世界のつながりを見ないようにして、遠くの他者を殺し続けるのかということなのである。

 ビオンやブランショの考え方は、ドナルド・ウィニコットに受け継がれていった。ウィニコットは20世紀イギリスを代表する心理学者で、精神分析医が患者の心理を「抱える」ケアこそが、その次のキュア(治療)につながるのだと考えた。機械的なQ&Aは、心身の負性という状態をホールディングするという作用を殺いでしまうのだ。


 そもそもぼくたちはただ生きたいだけなのに、答えが出ることや結果を出すこと、、売り上げやGDPのことばかりを求められることのほうが、資本主義という「病気」なのではないか。利益は格差からしか生まれない。ということは全員鼻先に給料をぶら下げられて、この残虐な仕組みに気づかないまま、ポジティブに他者を蹴落とし犠牲にできる人間になるよう洗脳され続けているのではないだろうか。

 イシス編集学校では「問・感・応・答・返」という回路の循環をたいせつにしている。先生曰く、編集においては、世間のような一問一答型のQ&Aをクリアすることは重要ではない。さまざまな「問い・感応・答え・返事」を行ったり来たりすることが認識や表現の「厚み」が育んでいく。きっと編集学校の師範代は、学衆の気持ちをコンテイン(内含)するコンテナ車両となって、教室を南へ運ばなければならないのだ。

 ぼくは色々な不安がある。ぼくは先生が元氣でおられるうちに『侍JOTO』を描き上げられるかわからない。母がいなくなったあと一人で暮らしていけるか、今のようにマンガを描きながら生きていけるかわからない。師範代をしながらマンガが描けるか、日本や世界はどうなっていくのか、わからない。今夜はこんな不安だらけの問いに対し、当の先生が「エディティング・ケイパビリティ」こそが認識や表現を彩り豊かにするのだと、応えてくれたように思えたのである。

 花伝所でも、14離の仲間との間でも、言い淀みながら迷いながら言葉を探していくようなやりとりが、ある時は自分が見つけた宝物を仲間に分け与えるような、あるいはほとばしるような想いを紡ぐようなやりとりが続いている。曳瞬院のSさんが、武臨院のぼくやIさんに応じて紹介してくださった情報が、何らかのヒントになりそうだが、ここは伏せておこう。

 ぼくの好きな人たち、尊敬する人たちは、みな負を抱いたまま闘っている。

風花の姿問感応答返

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