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ピュタゴラス派

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 千夜千冊1834夜、ブルーノ・チェントローネさんの『ピュタゴラス派 その生と哲学』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1834.html  せめて三平方の定理だけでも理解できないかなと思って、中学校(だったっけ?)以来の数学の復習をしてみた。やはり計算式になると何が何だかさっぱり分からないが、図形の面積の何が何を証明しているというおおよその関係は理解できたと思う(…あまり自信はない)。  とにかくなんとなく、偉大なる数聖に敬意をはらいたかったのだ。数学といっても、今夜はぼくの好きな神秘に包まれた古代世界の話である。数学的事績がさだかではないピュタゴラスと、その教団の哲学とはどういったものなのかがテーマだ。  ぼくはピュタゴラス教団というと、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じ、違反者を船から海に突き落として死刑したという逸話のインパクトが強すぎて、ピュタゴラスは数字に取り取り憑かれて、人命さえ蔑ろにするような危険で妖しい人物なのかと思い込んでいたので、今夜のお話でかなりイメージが変わった。  それにピュタゴラスの音階(ハルモニア)の研究や教団の様子は、増川いづみ先生のサウンドヒーリングの活動とよく似ていることが分かった。増川先生は、各惑星がある音に照応し、それらがハーモニーを形成しているというピュタゴラスの「天球の音楽」の理論を発展させ、サウンドヒーリングのための楽器を発明されたのではないかと思われる。十川治江さんの言う「天界の調和音を封印する数」とは、つまりは周波数のことなのではないか。  軍産複合体がこの周波数を悪用し、人を病気にしたり人工的な災害を起こして、人殺しをしている一方で、増川先生はさまざまな病気の治癒や、人々の健康のために周波数を活かし、自然を大切にして、この世界に尽くしておられるのである。  ケムトレイルは、最近はバレないように真夜中から朝にかけて撒くか、あるいは雨雲の上から撒かれている。が危険だというニュースを大量に流すのは、まず動物たちを殺して森林を伐採し、メガソーラー風力発電の巨大風車を設置するためだろう。原発汚染水を垂れ流せば、魚を食べる人が減るから、海上に風力発電を作ったっていいだろうという流れも、全く同じパターンだ。自分たちの金儲けのために、人や動物を故郷から追い出し排除し殺して、資源搾取と自然破壊をしている。そうしてできたエネルギーを、さらなる金儲けのための大量生産と兵器の稼働に使う。この地獄のように続く開発を止めなければ、人々の健康を守れないばかりではなく、人類および全生命、地球の存続自体が危ぶまれる。  ぶっとんだ解釈かどうかは分からないけれど、ぼくはよく世界の裏事情みたいな話に勝手にのめり込んで、色々な情報をリンクとして引用させていただいている。実のところ、ぼくは引用させてもらっている情報を自分自身が参考にし、他の人にも見てもらいたいと思っているが、引用先の人が出している、全ての情報に同意しているとか、賛同しているというワケでは無かったりする。それは家族や友人とだって、いつも100%意見が一致するということは無いのと同じだ。  たとえばその多くの方々の出してくださっている、ある情報に関しては、なるほどと思ったり、それによってこちらの見方が変わったりすることもある一方、はたしてこれはどうなんだろうとか、この人はあの情報を知らないために、こういうふうに考えているのかもしれないなどと想像したりすることもある。  しかし最近は、一人の人において一つ二つ、あるいは20~30%ぐらい賛成できなかったり、モヤモヤする意見の相違があるからといって、その人の提供してくれている情報をまるっきり無視したり、もうこの人の話は無視しておこうなどと、決めこんだりしないようになった。セイゴオ先生の場合はそうした判断が、プラトンやライプニッツなどといった哲人相手にも起こっているのではなかろうか…。

 関係が移ろうことで、だんだんと自然に離れていくことはありうるかもしれないが、ぼくが変わっていくように、相手の人も何かのキッカケに変わっていくこともあるのかもしれない。  ぼくは友人の影響で、肉や魚をほとんど食べなくなった。友人は動物が好きで、動物関係の専門学校に行ったのだが、そこでペット業界や、今の畜産業界がいかに残虐かを知ってショックを受け、肉が食べれなくなりビーガンになった。添加物や遺伝子組み換えやゲノム編集、農薬のことも含めた食べ物の現実を色々と調べてゆくうちに、無農薬・無化学肥料の野菜の野菜の宅配をしていたFさん、自然栽培に取り組むOさんに出会ったのだという。  ビーガンにとって、豆は重要なたんぱく源だから、ピュタゴラスが豆嫌いというのは違和感がある。色々な説があるものの、人を貶めるために何かが誇張されて吹聴されるなんてことはよくある話だから、豆嫌い伝説もそういった類のものなのではないだろうか。

 菜食主義や女性に学ぶ機会が平等に与えられていたピュタゴラス教団は、組織としての在り方としては祇園精舎のようでもある。ひょっとしたらむしろ、違反者を死刑したという話も、あまりにも画期的かつ平和的な教団の在り方が不都合だった勢力による、でっちあげという可能性もありそうだ。

 理性的な知性だけが、人間と他の生き物との唯一の違いだと信じ、すべての生き物を保護し、世話する責任を感じていたピュタゴラスが、命というものを粗末にするようには、ぼくには思えない気がした。  よく「ビーガンや動物愛護の活動をしている人は、人間より人間以外の動物を優先する」と勝手に決めつけられることがあるけれど、ぼくもそのビーガンの友人も、家族や友達の何人かは肉や魚を食べているし、そのことで家族や友人に対し、特に何かを思うということは無い。それに菜食をしていると、不思議と菜食中心の人が周りに集まるし、ぼくはそこまで厳格では無く、周囲に合わせて、その時いただいたものを食べることにしているのでそれほど苦労はしていない。昔は一時期悩むこともあったが、嗜好や生活スタイルというものは、自分の意志で「変えよう」と思わない限り変わるものでは無いことを、特に親父との関係の中で知り、自分なりに学べたかな思う。

 今夜のお話で特に心に残ったのは、やはり「マテーマタ」(数学)とは、アクスゥマタとシュンボラをくりかえして提供するマテーマティコイ=師範代の姿そのものだということだ。編集学校のおおもとのひとつが古代ギリシャにあったなんて。千夜千冊の数学シリーズが始まって、ついに「ぼくは数学が苦手だから、これは”数学”と思わずに”編集”だと思えばいいんだ」と発見したところだったので、驚きも二倍になった。なんだ、数学とは型であり、編集稽古だったのか! 物忌みの明けて善哉新小豆

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