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千夜千冊1825夜、サラ・ブラファー・ハーディーさんの『マザー・ネイチャー「母親」はいかにヒトを進化させたか』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1825.html いつもとても凝っているなと思うけど、今夜のTOPページのデザインも素敵だ。幸せな夢の中に赤ちゃんがいるような画だ。神秘的でありながら、見ているこちらも満たされた気分になる。「母は一人ではない」というメッセージは、世のお母さんたちに語り掛ける言葉であると同時に、子供たちにも、血のつながった母親だけが母と呼ぶべきものだと決まっているのではないよと言っているようだ。母親にも子供にも別様の可能性をひらいているのだ。 人々の可能性をひらいて行くことをミッションとするイシス編集学校には、母をエディティング・キャラクターとする師範たちがいる。一人は、大衆ではなくお困りのママさんパパさんたちのアイドルを志す「アイドル・ママ師範」。もう一人は漢方に詳しいお医者さん(男性)なのだが、何故かすっかりオカンキャラが定着してしまった「ハナオカン師範」。お二人は”母性”や”母性本能”を打ち出したことで、多くの学衆さんに安心感を与えているように見受けられる。イシスには他にも、そのままずばり「編集かあさん」と呼ばれる方がいて、周囲を巻き込みながら、子どもたちとともに、日々を豊かに彩る工夫を記事にして発信し続けている。 今夜のお話は、”母性”や”母性本能”が、自然史と生物史の中で、どのような役割を果たしてきたかを中心に、「母」にまつわるあれこれが語られている。歴史や神話のマザーモデルから、セイゴオ先生と先生のお母さんの話まで、昨今忘れ去られている、類と個にまたがるものたちの面影に触れることが出来た。 歴史や神話というと、最近ぼくは三橋貴明さんの古代文明の動画(無料部分)を観た。最新の考古学によると、世界最古の文明は教科書に載っている4大文明のメソポタミアではなく、日本の縄文文明なのだそうだ。嘘でもトンデモ説でも何でもなく、縄文文明は「3万年も昔に存在し、1万年以上も続いた」ということが解明され、国内外の研究者から大いに注目されている。 この地球を未来の世代へ継いでいくためにぼくたちが注目すべきは、なぜ縄文文明が1万年以上も続いたのかということだ。三橋さんは、縄文文明には「対人用の武器」が無かったことから、他の文明のような大きな戦争が無かったのではないかと予想している。また、他の文明が資源を消費し尽くして砂漠化したのに対し、縄文文明は自然と調和し続けるための独自の経済システムを持っていたらしい。そのシステムが気になるところだが、ぼくは今夜のマザーネイチャーのお話を読んで、縄文文明とは、巫女を中心とした集落が点在し、ネットワークを作りながら相互作用する「母型村落型文明」だったのではないかと思い浮かんだ。『もののけ姫』の蝦夷の村のようなものや、沖縄のノロやユタに支えられる村のようなものが、たくさん共存しているイメージだ。 そんな縄文文明社会では男は戦争せずに何をしていたのか…というと、ひたすら祭りとアートをしていたのではないかという気がする。これはただなんとなく、バリ人とか、博多っ子など、環太平洋系の男たちの中に、祭りのためだけに生きているような気質が時々見えるからそう思うだけなのだが、縄文文明では祭りで活躍したり、イケてる土器を作る男が一番モテたのではないかと想像する。だから縄文土器はあんなに燃えているのだ(多分)。 ぼくは、西欧・科学・男性性(の最も悪しき部分である攻撃性や権力欲)が優位になりすぎることによって、今の世界が破滅に向かっているように感じている。自然を支配しようという一番顕著な例が、HAARPやケムトレイルによる気象操作だ。今年も巨大台風や、日本列島を集中して横切る不自然な雨雲による集中豪雨、酷暑などの攻撃を行うつもりのようである。 杉山幸丸さんの研究から発見されたサルの子殺しは、ぼくが先達文庫としてもらった日高敏隆さんの『人間は、いちばん変な動物である』にも紹介されていた。ぼくは読後、子供を生贄にする儀式や幼児虐待・虐殺の起源は、ライオンやサルに見られる子殺しにあるのではないかと思ったのだ。
悪魔崇拝者は、本当は悪魔というものを尊崇しているのではなく、アドレノクロムで若返りたいとか、虐待によって性的な快楽を得たいという自分たちのエゴを正当化するために、悪魔をシンボルにしているだけなのだろう。つまり彼らが崇拝しているのは自分自身なのだ。悪魔とは鏡に映った彼ら自身であり、悪魔崇拝とは、自分と自分の血筋さえよければ、他が滅んでも子どもを殺してもかまわないというエゴイズムの極致なのだ。
そんな利己的な遺伝子を引きずった、支配的性質を持って進められている現在のフェミニズムは、単に上からの命令で、男の奴隷がしている西欧化や科学化や権力闘争ショーを女性にさせるだけの「女性の活用」になってしまっている。 かといって労働をAIやロボットで代替すればいいというのは安易な考えに思える。その論理には、AIやロボットを大規模に運用するためにどれだけの資源が搾取されるか、どれだけ環境が電磁波まみれになるかなどの、生命への重大な影響が考慮されておらず、彼らの想定しているロボットとは「機械化された奴隷人間」であることが隠されている。 本当に男性性と女性性のバランスをとることによって地球を再生したいなら、西欧科学文明のマスキュリニティな執着がつくり上げた、仕事や労働・教育などの社会システムと、その根底にある概念そのものを変え、東洋の文明の奥に潜む母なるものから学ぶ必要があるのだと思う。詳しく言うならば、ぼくたち東洋人、日本人は、新しく変えるというより、自分たちの失ったものを取り戻し、眠っているものを呼び覚まさなくてはならないのではないか。 先日、Aさんの一周忌に14離の仲間で集まった。
ぼくは彼がワクチンと5Gによる大動脈解離で亡くなったのだと思っているが、それを今まで事実を知らされていなかった医療関係の人々の責任だとは思わない。国際金融資本とか、影の政府とか、その下の政府やWHOなどの組織や製薬会社やマスコミや御用学者などの、意図的に嘘をつき人々騙した者、自分たちのしたことを何とも思っていない連中が真っ先に地獄に堕ちるのだと思っている。ぼくはそう思うことで、グチャグチャと相手を呪って、必要以上に憎しみに囚われることの無いようにしている。しかしぼくでさえこのくらいの怒りや悲しみを感じるのだから、実際に家族を殺された人々は、どれほどの辛さや苦しさを抱えているだろうかと思うことがある。
もし、例えばイシスにいる医療関係者にも責任があるというなら、火中からあの日までに、もっと信憑性のあるように情報を編集できなかったぼくにも責任があるのだろう。ぼくは、ぼくがもっとちゃんと伝えることができていれば、Aさんは死ななかったかもしれないと考えている。これはぼくが生涯抱える創であり、残念となるのだろう。
一周忌の夜は、Aさんの写真やAさんの書いた感門表を拝見しながら、ぽつりぽつりと語らった。Sさんが昔Aさんと、亡きT学匠について「エディットカフェを開くと、そこにT学匠がいるんだよね」と語り合った思い出話を聞いて、ぼくは家族や友人など、自分の周囲の人々の言葉をどれくらい憶えているだろうかと思った。自他どちらの言葉でも、何らかのカタチで残すことの大切さを感じた。 みんなの話から、Aさんはどこまでも穏やかで、リーダーの立場に立っても、人を引っ張るというのではなく、相手の機を見極めてそっと背中を押すことで励ますような方だったことが伺えた。セイゴオ先生は母性を持った男性のことを「母なる父」という言い方で表すことがある。Aさんはどちらかというとスラッとした紳士的な人で、キャラクターとして母性を打ち出していたわけではないが、本当に「母なる父」と言うに相応しい人だった。それを別に父性愛と言い換えたっていい。どっちだって、世界とぼくらに必要なものをAさんは残してくれた。 会の終わりがけに、みんなでAさんの好きだった歌を聴いた。ぼくはAさんを通じて知ったこの歌に、イシスの編集的世界観を感じる。14離がもしこのmemberでなかったら、ぼくたちは今も月に一度集い、勉強をしながらあれこれゆるゆると話す、ただそれだけだが、しかしそれだけのことをここまでずっと続けられただろうか。ぼくたちは偶然それぞれの時が熟して14季の離に集まり、離後も編集を続けている。ぼくらの結び目にAさんがいて、この偶然を必然にしている。Aさんはたしかに「ここにいる」のだ。 卯の花へ母のことだま降りけぶる