
千夜千冊1789夜、エーリッヒ・アウエルバッハさんの『ミメーシス(上・下)ヨーロッパ文学における現実描写』を読んで思い浮かんだことを書いています。
8月の14離企画会議は『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』を観て感想を交し合った。やはりみんな芥正彦さんと三島さんの掛け合いが鮮烈だったようだ。「50年目の真実」というのは、有体に言えば「三島由紀夫=右翼VS東大全共闘=左翼」という構図は、その後の社会が貼ったレッテルであって、両者は反アメリカ(今でいうグローバリズム)という点では共闘可能だったということである。ただ、芥さんが芸術と言うテロリズムによって人の心を動かすことで戦おうとしていることに対し、三島さんは継続を重視。つまり生活自体を変えなくては、本当の解放(日本の独立)にはならないと考えた。
ぼくはスザビ師範代が紹介してくれた、2022年早稲田祭の「芥正彦氏×宮台真司氏 公開対談」も観た。芥さんも宮台さんも山上徹也(安倍暗殺茶番役者)を本物だと思っているのは少し残念ではあるのだが、それ以外の、行政とマスコミの犯罪に対する見方は的を射ている。ぼくは芥さんの方法も有効であるし、三島さんの言うことも尤もだと思うので、どちらも編集していきたいと感じた。また宮台真司さんが凄まじくて、大学にもこんな人がいるんだと驚いていたら、今夜のお話にも登場していた。
9月は番期同門祭に参加した14離メンバーが、当季16離や、過去期の離学衆のみなさんの言葉の中から印象に残ったものを持ち帰る予定だったが、感門ではあまり16離の人々とゆっくり話すことが出来なかった。代わりに編集女将がコミッションの方々のお話をかいつまんで語ってくれた。いづれエディストになるのだと思うけど、ぼくは大澤真幸さんが意外と熱い人なのだなと分かって、大澤さんがコミッションメンバーになってくださってよかったと思った。武邑さんはOさんがヤバイ人と評すくらい、セイゴオ先生の知的危険な香りの部分を担当されるのかなと思うと、ぼくもゾクゾクしてくる。
井上麻矢さんの推す破の課題図書や、今福龍太さんの『霧のコミューン』など、この一か月でこの人の本を読んでみたいと思う人が一挙に増えた。ちなみに来月ぼくらはセイゴオ先生と田中優子先生の『昭和問答』を共読する予定である。
新しくなった伝習座はYouTubeでライブ配信する予定が上手くいかず、Zoomに引っ越すことになるというトラブルが起きたものの、そこはイシス編集学校、このカオス状態を新たな伝習座の物語が始まる契機と捉え、みなさん楽しんでいる様子だった。
メインの津田一郎さんの「カオス理論と物語編集」についての講義は、彫刻と物語の作り方を重ねた見方や、破コースの物語の構成要素がカオス理論や脳科学の何に当たるのかというお話が、ぼくがマンガを描いているときの感覚とも響くものがあって面白かった。
生成AIは人間より無駄にコストがかかっている(スマホを大量生産し、地球上全てを覆うような回路を構築して、利用者からあらゆる情報を吸収することで人間の知識を越えようとしているために、大量のエネルギーが必要で、その産業構造を維持拡大するために原発再稼働などという話になっている)という指摘や、自動運転は人間がもとから持っている体性感覚(運転をしていると、車の周囲50㎝くらいまでが自分の身体として拡張しているように感じる力)を鈍らせる側面があるのではないかというお話は、さもありなんと、かなり参考になった。
エハラさんの質問で引き出された津田さんの幼少期の体験が、ぼくの体験とイメージの形は違うけど、意味的には似ていて驚いた。津田さんは小さい頃、ある日突然目の前が真っ暗になって、二本の光の線が流れ、短い一本が自分の寿命、延々と続く長い一本が宇宙だと直感されたそうだ。それで自分がいつか死ぬ存在だということを幼くして悟り、怖くなったという原体験を持ちづけてきたそうである。
ぼくの場合は5、6歳だったか、夢の中にマンガ日本昔話みたいな、アニメ調の後光が差したおじいさんが出てきて、その光景があの世で、やはり自分はいつか死ぬんだということが分かって怖くなった。でもその体験があったから、人間は何故死ぬのか、いつか死ぬのに一体何のために生きるのかを考えるようになった。津田さんもそうなのだろうか。
今夜のお話は、全世界の文学作品や文章群のなかに伏せられた「ミメーシスの重層構造」を分析したエーリッヒ・アウエルバッハの名著『ミメーシス』を借りて、セイゴオ先生がミメーシス(mimesis)とは何かを、東西を行き来しながらリバースしている。
2016年9月3日開催の感門之盟のテーマである「ミメシスイシス」を想起しながら書かれたようである。当時ぼくは師範代を養成する花伝所にいて、錬成場でデロデロに溶けて花伝キャンプに参加し、グルグルキャンディー的なテンションになっていた頃だ。
だからぼくにとってこの千夜は、先生からの花伝所入伝生への差し入れのようでもあるし、今回のオツ千を聞いてみると、完成した『侍JOTO』への、セイゴオ先生からの時空を越えたお言葉にも思えて、ただただ幸せだ。
今夜のお話の「地」と「図」の解説では、前回のブログで言わんとしていたことを、自分の中であらためて整理できた。同じ「コロナ禍」という図でも、ウィルスが蔓延していると思っている人と、コロナなどのウィルスが原因だというのは政府や製薬会社やマスコミによるプロパガンダであり、ワクチンによって多くの人が病気や障害になり亡くなったと認識している人が混ざっている。その混ざった地の上で、みんなあまりにもはみだしすぎると生き残れないという不安や帰属意識から「コロナ禍」と言っているのかもしれない。
ただ、問題はさらに複雑に進んでいて、現在アメリカで敗訴した製薬会社らのコロナワクチン賠償金補填のために、日本政府が大量のワクチンを買い、子宮頸がんワクチン推進や秋からの定期接種人体実験によって、日本の子供たちやお年寄りを犠牲にしようとしている。原発新増設のコストを国民に押し付けようとするなど、日本人を極限まで苦しめ、減らしながら移民を大量に入れて、土地・水源・命までもを奪うつもりであることがありありと見える。誰が総裁になろうが首相になろうが変わらない、宮台さんの言う「アメリカのケツを舐める官僚のケツを舐める政治家のケツを舐める日本のマスコミのケツを舐める評論家のケツを舐める日本国民というケツナメ連鎖」から、どうやって脱していくか。
ぼくはまず、消費活動や市場に切り替えられて以降、そちらの仕組みに負けているプロセスを、有機的な適応である本来の模倣を取り戻したい。
マーキング読書で何を書いたらいいか分からないので、少し前から「オツ千」を聞きながら、林頭とホズミ方源の言葉をエディションに書き込むということをしてきた。今夜のお話で、その取り組みがセイゴオ先生の仰っている「一人の自分の中の自我理想と理想自我の貧しい結託が破れて、そこから思いきった学習がおこる」一種の共読=感染的模倣による学習になるのかと分かり、ホッとしたというか、ちょっと自信がついた気がする。
また、「ミメシス・イシス」では、ただの外見的なネタだけの真似ではなく、観念と意志、判断と企図を真似することの重要性が説かれていたことに勇気づけられた。
そうした意味でひとつ気になっているのは、セイゴオ先生が守コースの新しい教室を名づけ、感門之盟で教室の師範代へ渡す手書きのカードが無くなってしまったことだ。外見を先生のようにはできなくても、もし誰かの手書きによって代わることが出来たら、それが森村昌也さんの言うように”松岡正剛であろうとすることを真似ようとする”ことになるのかもしれないと思う。
過去映像においても、今回の伝習座においても、ぼくはみなさまの様々なQ&Eに触発された。過去映像ではフカヤ現花伝式部とセイゴオ先生の対話が特に。今回は、ウメザワ右近にカツラ左近、師範らから発せられたQ&E、お囃子の方々やイシグロ師範らのコメント、関連千夜の差し出しの速さにもびっくりしたが、特に太田総匠からの数々のヒントが印象に残った。みなさまは、太田総匠が言った千夜千冊1300夜『法華経』の、地涌の菩薩に関する記述のどこに着目されたのだろうか。
一斉に燃ゆる錫杖彼岸花