
千夜千冊1789夜、エーリッヒ・アウエルバッハさんの「ミメーシス(上・下)ー
ヨーロッパ文学における現実描写ー」を読んで思い浮かんだことを書いています。
https://1000ya.isis.ne.jp/1789.html 花伝所に入り浸りで、ぼくは最近、今まで過ごして来た世界から離れていた。気づけば冬空はケムトレイルだらけ。地球温暖化を訴える連中の手によって大気汚染が進んでいる。家族もただでさえテレビのニュースや街頭の画面広告がワクチンだマスクだとうるさいのに、新聞も嘘ばかりなので、来年からいっそ取るのをやめようかと言っている。
母が説得をしたけれども親父は抗がん剤を打つことにした。今2クール目だ。随分弱り、その結果もう肉があまり食べられなくなったことで、なんだか性格が丸くなってしまった。禍転じて…というワケでもなく、妙に穏やかな空気が家の中にだけ流れている。千夜千冊も久しぶりである。 セイゴオ先生曰く、世の中の文体や文意はそもそもが相互にうつし合う状態になっているのだという。同じことをジュリア・クリステヴァは、すべてのテキストはインターテキスト状態(間テキスト状態)なのだと言い表した。 おし広げて説明すると、どんなテキストも何かの意味で連想的に、あるいは比喩的に関連しあう可能性をもっているということになる。全部が似ているのではなく、「どこか似ている状態」が次々に関連しあう。ただし、どこを連想や比喩の対象にしたかということは、今まで生きてきた中で出会った作品、影響をうけた文体、文章を書く人の力量、時代社会への視点、言いまわし、書く場面(シーン)の決め方などによって、たえず変わってくる。 今夜先生はエーリッヒ・アウエルバッハの定番名著『ミメーシス』をベースに、そんなインターテキスト状態の重層構造について語っている。 ミメーシス(mimesis)とは何かをまねることだ。分かりやすいのはコスプレやものまね歌合戦だけど、それだけではない。千夜本編には実にさまざまなミメーシスが紹介されている。 「アナロギア」(英analogy:類推・連想)、「ミメーシス」(英mimicry:模倣・相似)、「パロディア」(英parody:諧謔・滑稽)は家族のようなものだ。古代ギリシアの知識人たちは、この3つの技法を”方法の王”として、詩や哲学にしていった。 それにしてもプラトンはミメーシスがあまり好きじゃなかったとは知らなかった。 反対にアリストテレスはミメーシス歓迎だったとは意外だ。しかしよく考えたら、だからこそイシス編集学校の〔破〕コースには、AT(アリストテレス)賞があるんだよなぁと今さら気付く。ぼくはプラトンから受け継がれてきた「想起と投企」という考えも好きだが、方法の王たちがいなければイデアは地上に降りてこない(脳内でうまくひらめかない)という考えにも賛成だ。 セイゴオ先生の探求心はアウエルバッハが書いた内容のさらに奥へ進む。ミメーシスがどういう方法の束で何をスコープしてきたかということだ。ミメーシスはたんなる模倣の技術であるはずはないのに、世間ではいまだにやっぱりそのように扱われている。 これでは「方法の核心」には至らない。先生は「方法の核心」はアナロジカル・シンキングやメタフォリカル・エディティングにあるはずだと思うようになられた。そのうち編集工学を組み立てるようになって、その方法をイシス編集学校などで実践的に学んでもらうように努力するうち、ミメーシスによる編集方法を強調することになったのだ。 もとのミメーシスという技法には「地」(graund)から浮き出た「図」(figure)を動き出させるという意味がある。詳しく習うには編集学校に入るのが一番だ(笑)。 古代ギリシア悲劇の作中では、地の描写が「ディエゲーネス」と呼ばれ、会話の部分が「ミメーシス」と呼ばれていた。そんな言葉はありえないけれど、今夜はここから先生がディエゲーネス(叙述)を「ディエゲる」、ミメーシス(会話)を「ミメる」と言ってるのがおもしろい。 マンガの場合、ストーリーがディエゲってて、画となるキャラクターのふるまいやセリフがミメってるということなのではないだろうか。先生は、大切なのは「ディエゲる地」と「ミメる図」の切り分けの関係にひそむ方法の意図なのだという。マンガで言えばストーリーと画の間にそれがあるのかということなのか、わからない。ただぼくには連想が動いている。 いまなお今日の社会の中では模倣がパクリの一種と捉えられている。
ずっと前から先生はこれはかなりおかしいぞと言っている。ミメーシスこそは「創発」を起動する最大の編集エンジンだからだ。
ぼくは少し前まではこの模倣のお話を聞くたび、実のところ複雑な気持ちだった。なぜならぼくは昔大手マンガ雑誌社に投稿したマンガ作品を評価されぬまま、アイデアだけを使われるということが何度かあったからだ。一度は景品みたいなおためごかしが送られてきた。あれは「これでもやるから黙っていろ」という代金だったのだろう。何の証拠にもならないだろうし、見るたびに吐き気がするようになって捨てた。ぼくは奈落の底に突き落とされたような気持ちになって絶望し、次に殺意を抱くほどの怒りに発狂した。京都アニメーションの放火殺人犯と同じだ。だからぼくは京王線や大阪放火はマスコミによる詐欺でも、京アニ事件は違うという気がしている。本当のことは分からない。けれど、はじめて模倣は技術だというお話を聞いたとき、昔のぼくは「じゃあ無名の者は利用されるしかないのか」と感じ、かなり悶々としたものだ。 今では少し冷静に、模倣にも作法があるのではないだろうかと思う。模倣するなら模倣することを公言すべきだし、何かから少しでもインスピレーションを得たというなら、たとえ元ネタの作品が拙くとも、作者が無名であろうとも、敬意を払い紹介するぐらいの度量が必要なのではないだろうか。 でなければ最初から新人の募集などやめるべきだ。審査する人間は制作には一切関わるべきではないし、制作者やその作者の担当の編集者は審査員になどなってはいけない。なんてぼくごときが言っても所詮変わらなそうだ。
企業が変わらないなら、どこの業界もそんなもんだと早々に見切りをつけた方がいいのかもしれない。多くの若者が捨て駒にされぬよう、声を大にするべきなのかもしれない。でないと同じような不幸や恨み辛みを大量生産するだけだろうと思う。
思うけど、ぼくはもう業界など無縁なのでどうでもいい。夢や理想の実現とやらのために、倫理や生命や文化を踏みにじっている、資本主義自体がどうでもいい。
民主主義を装って表面的な「正義」や「事実」の辻褄合わせをする全体主義的資本主義だろうと、共産主義という名の国家資本主義だろうとどうでもいい。
という文句をあれこれ言ったところで、今夜のお話とはズレていってしまうような気もする。そんなことよりぼくは、何の考えも無しにディエゲるとミメるの間に遊びたいのだ。 ポール・リクールは①「ミメーシスは行動の再現である」、②「ミメーシスは出来事の組み立てである」、③「読者や観客は経験をミメーシスする(つまり再形象する)」という3つのミメーシスを提示した。ミメーシスという行為は、やはり作品を受けとる側にもおこっているのだ。 一方、大澤真幸さんと宮台真司さんは、サンデルによる「正義」と「事実」の重視に対して、むしろミメーシスによる「感染的模倣」を重要だとした。 学習の動機には「競争動機」「理解動機」「感染動機」があり、この「感染動機」にミメーシスのしくみがかかわっていて、それによって一人の人間が、理想と自我でがんじがらめになっている状態が破られ、思いきった「学習」がおこるとみなしたのだ。 一番別様の可能性がありそうなのが岩谷彩子さんの『夢とミメーシスの人類学』(明石書店)なのかもしれない。他者の夢、つまりはイメージを自分たちの神としてミメーシスするという習俗をもった部族のお話が紹介されている。 なんだかぼくが他人のイメージからミメってキャラクターを作る感覚によく似ているように思う。ぼくは他の作品だけではなく、現実に出会った人そのものからミメることもあるし、Tさんのアイデアで、一時期お客さんの夢や守護霊さんを絵にするという商売をしたことがあるので分かる気がする。 セイゴオ先生からしてもミメらない編集はありえないのだ。 カイヨワさんからしてもミメらない遊びはない。動物や人間には何かに模倣したい、あるいは模倣関係をもちたいという社会的本能があるのだそうだ。 日本の芸能や技能にも、とっておきのミメーシスがひしめいている。「見立て」や「うがち」や「やつし」、「準え」(なぞらえ)や「擬」(もどき)や「肖り」(あやかり)などだ。 「型」がディエゲーネスで、型を背景に変化していくのがミメーシスと見るといいらしい。世阿弥もまず「型」を重視した。「型」があるから「地」をディエゲり、そこに「図」をミメることができるのである。 おもしろいのは、いったんミメろって「らしさ」や「もどき」が発想されると、次からはその「らしさ」や「もどき」が新たにディエゲる起点となって、次々にミメーシスを連鎖させていくことだ。この相互関係がアナロジカルに、連想的になっていくのである。 先生は生命も歴史も文化も、先行するものを「型」として(すなわち「モデル」として)、そこからの発展や超克や逸脱をめざしてきたのだという。そうしてどんどん進んで行ったのは、言葉と道具とシステムが不充分なスタートを切ったからだというのだ。 皮肉にもモンゴルの草原の馬に乗る少女を殺した自動車は、馬車を原型に生み出された。この「発展」や「進化」のエンジンとなったのもミメーシスなのである。 今夜のお話はつながっているのか。別々の話なのだろうか。問題はどこにあるのか。やはり資本主義というシステムだとぼくは思う。今夜のお話を読んで、慟哭だけで済ませてはならない問題なのではないかという気がしてきた。どうでもいいのに腹が立つ資本主義は、今や世界中のどこへ行っても、ケムトレイルやHAARPと同じように侵略してくる。 システムを編集するしかない。世界を地獄にするのに加担させられる社会のしくみを変えなくてはいけない。それにはより多くの人が、「内的な偶然」と「外的な故意」との関係を考慮し、自分の人生と社会というシステムを編集できるようになる必要があるのだ。 何時までも連想くべる夜焚火