千夜千冊1793夜、ネルソン・グッドマンさんの「世界制作の方法」を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1793.html 先日イシス編集学校の師範代を養成する花伝所の敢談議(かんだんぎ)があった。以前は試験的な面接だったらしいが、イシスらしくないということで、もうすぐ師範代になるザリガニ先生ことHさんを含むぼくたち放伝生と、師範や花伝所の所長、花目付、林頭や局長、そして松岡校長(セイゴオ先生)が集い、敢談し合うこととなった。前もってぼくらには千夜千冊エディションを図解するという宿題が与えられていて、当日は自分の図解についてその場で質問に答えなくてはいけなかった。ぼくは思ったほど緊張しなかった(Zoomとリアルではまた違うのかもしれないけど…)。多分その週のアタマに14離のみんなの前で一人で話す機会があったことが、敢談議前の訓練になったのだと思う。 当日は門感応答返と様々な感情が交差した。「ちょんまげスイミー教室」で同期だったT師範に感動してもらえたり、師範代だったM師範やI師範に登板へ向けての言葉や経験談をいただいたり、14離のNさんがぼくらと同じ49守で登板予定と分かったりと、嬉しい&楽しいコトの連続だったが、ぼくはまた妙なところでいつものおっちょこちょいを発揮してしまった。ともかくぼくらはセイゴオ先生の来し方に泳ぐ、ちびちびした魚たちなのだ。 ここまで何とか泳いできたが、ぼくにも日本の行く末はわからない。イギリスがコロナ詐欺をやめたことを考えると、軍がNWOのアメリカや、支配・洗脳しやすいと思われている日本人を先に消そうとしているのではないかと思う。とにかく今は子どもたちの命が危ない。医師や親、一人ひとりが金の奴隷となって人殺しに手を染めることなく、情報を掴んだうえで、今できる最善を尽くしてくれることを願う。 ごく個人的な行く末といえば、親父が抗がん剤を入れるカテーテルに膿が溜まって発熱し、入院してカテーテルごと除去して帰ってきた(病院の責任で治療費はタダだが入院費はしっかり取られた)。止めたことで生き残った母があれほど説得したにも関わらず抗がん剤を打った結果なのだが、まだ残りのクールをこなすつもりなのだろうか。 セイゴオ先生の肺には何が良いのだろうか。お隣の仙人Tさん曰く酵素や漢方などでも、ある治療法がその人にとって良くても、他の人にとっては毒になりうることもあるらしい。親父の場合は猛毒を入れているので、ぼくは背景が違うと思うのだが、母はこのTさんの話で放っておこうと諦めたというか、好きにさせようという達観に至ったようである。 そういうやむをえないことはあれこれあるけれど、セイゴオ先生が今日もまた世界読書にとりくんでいるように、ぼくも毎日マンガを描くなど、なんらかの編集稽古をする。ぼくはまだ最近ようやくイシスのみなさんが「守と離はつながっている」と言う意味が少しづつわかってきたかなぁというレベルだ。でも気分的には、まるで離の日々とマンガを描く日常や、イシスの外のぼくの世界がリンクしてきたようでおもしろいと感じている。 かくして今夜、千夜千冊からぼくのアタマにまた新たな援軍が加わった。ネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』だ。 本書は分析哲学の本で、かなりの難易度のようである。部分と全体の関係(part-whole relation)を扱う数理理論、メレオロジー(mereology)を表象論にあてはめた…なんて説明を聞くだけでクラクラしそうだ。
しかし「グルーの理論」は絵やマンガを描く人間からするとそれほど困る理論でもない気がする。グッドマンが画廊をやっていたことと何か通じる。 グルーの理論では、宝石のエメラルドの色をグリーンなのかブルーなのかと決めるのではなく、そこに「グルー」(グリーン+ブルーの曖昧語)という三つ目の見方の概念を入れるのだ。グルーな立場から見ると、グリーンもブルーも揺れながら幅をもって議論が変形していく。
ぼくが「グルーの理論」自体に惹かれるのは、『侍JOTO』の天ちゃんの目の色を、決めてないせいかもしれない。ぼくはカラーを描くときキャラクターの目や肌の色をだいたいでしか決めない。特に天ちゃんの目の色は錆御納戸(さびおなんど)のときもあれば、花色(はないろ)のときもある。ようするにそのときの周りの他の色や場面によって変わるのだ。おかしいだろうか。いや、リンゴだって朝のリンゴと夕方のリンゴじゃ見え方が違うはずだ。
先生は引き出すものに向かう時はギョーカイとの縁を切るのだという。それを聞いてぼくはたとえば、マルクスがイルミナティだからマルクスという名前を出す学者は信用ならないと見るのではなく、相手から引き出したい方法的内容をじっくり見ればいいのではないかと思った。時々気になって振り返る斎藤幸平さんのオーソドックスでソフトな脱成長のコモン型社会と、マルクス共産主義・全体主義・独裁資本主義に抗う無印不良ネット民は、グリーン+ブルーのグルーになっていけるのではないかと思う。
著者のネルソン・グッドマンは「われわれはヴァージョンを制作することによって世界を制作する」と発想した。
ヴァージョン(version)のもとのラテン語は「転換」という意味で、“vertere“は「向きを変える」というニュアンスをもっている。
ようするに何かの「あらわし」にひそむ要素・機能・属性をなんらかの方法で変換したものすべてがヴァージョンなのである。変化のプロセスすべてがヴァージョンなのだ。出版業界ではこれを「エディション」と言い、映像・演奏業界ではこれを「テイク」と言う。
ヴァージョン自体もたえず擬(もど)かれたり、準(なぞ)らえられたりする。世界制作とはヴァージョンを発見することであり、まさに編集なのだ。
世界はいくつかのヴィジョンと、それにまつわるたくさんのヴァージョンでできている。先生は「世界を制作する」とはヴィジョンとそれに関わっているヴァージョンのカオスに飛び込んで、その異様なほどのアレコレ中に分け入ることなのだと言う。そう言われると、ぼくはそういうことをしているような気もする。ぼくらは寄せ手をふやして、言寄せに加わってゆくといいのだ。
たとえばある人の世界観は、どこかのヴィジョンの言割り(コトワリ)=「分節されたもの」の、いくつかの組み合わせでできている。出来のよしあしはべつとして、世界観とはつねにその人の「手持ちの世界観」から作られているはずなのである。
そうだとしたら、料理教室でも畑でもブログでも、”世界制作”とはいつもリメイク(remake)なのだ。誰だって「手持ちの世界」を土台に世界制作にとりくんで、少しずつでもリメイクして良いのだ。
セイゴオ先生はそれをエディティングと呼び、手持ちと援軍の編成体を編集工学と名付けてきた。
グッドマンは、世界はどこかしかるべき所、しかるべき時に所与されたものではないと言った。世界政府を樹立しようとしている連中は、そうい「しかるべき所、しかるべき時」を目指して計画を練って人殺しと自然破壊をしている。そしてそのことに気づかない多くの人、あるいはそういう話は陰謀論だと思い、世界情勢を裏ヴァージョンから点検する機会を持たない多くの人々は、「ちゃんとした権威」から与えられたりもたらされる情報がだけが世界だと思っているのではないか。グッドマンはそういった、与えられたの情報のみを必然と捉える必要はないと言ったのではとぼくは考える。
世界はもっと偶発的であり、偶有的だ。このことを哲学や学術を駆使して証明した試みはきわめて少ないけれど、ぼくは編集学校に入って、何度もコンティンジェンシーを感じる場面にさしかかってきた。
〔離〕から花伝所を経た学びのプロセスは、世界制作とは世界を「ばらす」か「結びつける」か、あるいはこの二つの作業をデュアルに一緒にするかによって成立してきたものだということを証してくれた機会だったのではないかと思う。
千夜本編の後半は、千夜千冊エディション『編集力』の「おまけ」ヴァージョン、寄せVの連打だ。ぼくはひたすらもしゃもしゃ丸呑みするのみである。その後は「おっかけ!千夜千冊ファンクラブ」略して「おつ千」というラジオ番組が、ついに本編で話題になるという「おまけ」もついてくる。坊主こと吉村林頭は千夜と編集学校と社会の間をつなげたり重ねたり、ときにひっくり返して裏をチラリと見せてくれるイシスの一休さんだ。穂積さんは言いかえで千夜を手前に引き寄せて、和やかな空気をつくりだすのが上手な謙虚な好青年なのだけれど、なぜか”小僧”と呼ばれている。こうしておもしろく遊ぶように千夜世界ヴァージョンはひろがっていく。
世の中には追っかけているものも、追っかけられているものもかなりある。ぼくは自分が追っかけられていると感じることはない。今夜は先生を追いかける同志たちに目が向き、ぼくも散歩だけではなくて、先生の背中を見失わないように早歩きしたり、ときどき小走りしたりを続けるんだと思った。
本編のユーミンのお話のように、前回の14離の集まりでもYさんが、師範代は誰もが「自分ではない師範代を自分が演じているようなものだ」というようなことを言っておられた。たしかに演習での指南をフィードバックすると、ぼくも自分に「お前誰」とツッコミを入れたく感じる(笑)。だから4月の49守で学衆となる人々は、別様の寺田悠人に出会うワケだけれど、実際の登板でぼくがどんなふうに「番」(つがう)のか、ぼくにもまだ未知だ。
冬萌えや結んでひらく環世界
先生は多くの人が継続から逃げようとしていることに釘をさしている。幸いにもぼくは何も与えられなくたってマンガを描くことや色々なことを知っていくのに飽きない。自分のヴァージョンとヴァージョンの隙間に「世界」を埋め込んで多重化していくのだ。だから師範代になって指南するといっても、これからイシスに来る学衆さんと出会うことで、自分が学ぶことの方が多いと思っている。千夜千冊もセイゴオ先生自身がエデションに出会い、みんながまた追いかけて南へ、南へと泳いでゆくのだ。海は深く、広い。
打ち寄せる波のリメイク春の海