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千夜千冊85夜・意表篇、唐木順三さんの『中世の文学』を読んで思い浮かんだことを書いています。
今夜のオツ千のトップ画像は何故コカ・コーラやエナジードリンクなのか。エナジードリンクというと、ぼくは番期同門祭の二次会か三次会明けに、ウメザワさんが、たしかミナミダさんに「エナジードリンクとか飲んじゃダメだよ!」と言っていたのを思い出す。ウメザワさんとは、ぼくは2・3回、一言二言しか直に話したことは無いのだが、そのときは師範代になる前で、守と離がつながっているという話をしてくださって、見た感じはクールな印象なのだが、優しくて面倒見のいい方なのだなぁというイメージがある。また、いつもOさんから色々な裏話を聞いているためか、今の離の火元のなかで一番熱い人、といえばウメザワさんなのではないかという気がしている。
これまでの千夜でも「数寄」についてはかなり語られてきたが、林頭やホズミさんの「現代人はあまりにも色々なものを与えられすぎているため、本当の数寄へ行けない。」「だからみんなつれづれ、それぞれの認識に浸っているしかない」という指摘にドキッとした人は多いのかもしれない。ナオキマンという人物を、ぼくはつい最近知ったばかりなのだが、あえて陰謀論というスタンスで彼が提供しているYouTubeの動画でも、ダボス会議に集まるグローバリストが目指す社会では、それぞれ多様なメタヴァースにつながった人々が、快適な監獄の中で最新テクノロジーに管理されながら一生を送る風景が描かれている。
オツ千が中世と現代を重ねていたように、中世と『中世の文学』出版当時の時代状況を重ねると、『情報の歴史』の1955年には、東京通信工業がトランジスタ・ラジオ発売、「テレビと反文学」などとあり、ラジオやテレビといった、新たなネットワークが大衆に広まりだしたことが分かる。ただ右側のヘッドラインには「欲望の開発」とあり、やはりテレビやラジオはもともと、上が作った価値観によって、大衆をもれなく従順な消費者にしていくための装置だったのではなかろうか。
今夜のお話の著者・唐木順三さんは、そんな時代に「無常」というものに目を向けていたのだ。
唐木さんは、無常が生まれ、無常から様々な概念が派生していった中世を、西行、鴨長明、兼好、世阿弥、道元、一休宗純から、近世の松尾芭蕉へ、すき(数寄)が、すさび(荒び)から、さび(寂び)へとなっていく過程に霞網をかけ、スケッチしていった。セイゴオ先生はそんな唐木順三さんに習い、唐木さんのつくった網から這い出ることで見えてくる、唐木さんが掬った日本人の心を紹介している。
今夜のお話を読んでいて、ぼくはふと、もしAIが人間を超えて神の代わりになると言うなら、そのAI(父なる神の代わり)は人類(子どもたち)を成長させるために、自分のネットワークから這い出なさいと言うのではなかろうかと思った。そう言わずに人類を自らに依存させ続けるなら、やはり今のAIとは結局、指向性兵器(DEW)や気象兵器、ワクチンと同じく、その開発に投資する人間たちの、尽きることない支配欲を実現するための道具の一つとして存在するのではないだろうか。
ぼくはそういうシナリオとは、全く別の物語を描きたい。ぼくも、ぼくたちは自分たちが求める世界像を本当は分かっているのではないかと思う。例えば、オードリー・タンさんなど、ワクチンや電磁波については、こうした情報を知らないのか、ぼくとは全く違う意見だが、この人はテクノロジーを崇拝しているというわけではないようなので、どうやってぼくたちが求める別様の世界を創造していくか、という方法論に関しては、参考になる部分もある。ただその直接民主主義の投票システムを、誰がどのように管理するのかが問題で、今の日本に台湾の方法を輸入しても、米や小麦にまでグラフェンワクチンコオロギを入れ、日本人を人体実験に使い、日本の資源を奪ったうえ、世界の産廃処理場にしようとしている売国奴や、既得権益層の金儲けに都合のにいいように利用されるだけのように思われる。
それにしても、あのセイゴオ先生が「極度に凝縮して読後当時の感想だけを伝えるしかないように思う」とは、唐木順三さんの思索力とは、一体どれほど凄まじいのものなのか、もちろんまだ『中世の文学』を読んだことが無く、その「世界」に入ったこともないぼくには想像もつかない。
ただ、今夜のお話やオツ千の解説のお蔭で、とくに兼好以降、数寄がどのようにして「さび」になっていったかということと、今の時代と重ねてみたとき、日本のどういうところが問題なのかについては、なるほどと思うところが多かった。
数寄はディレッタンティズム(仕事としてではなく自分自身のために芸術や学問を楽しむこと、趣味、道楽)なのだろうか。いや、ぼくは本当はそうは思わない。ぼくはマンガを「趣味です」と言う時、そこに照れがある。なんというか、アップロードするときも、人に贈り物を渡すとき「つまらないものですが…」という感覚に近いものがある。
一方で、マンガを描く時、ぼくは夢中になっている。こういう状態をよく「我を忘れる」とか「無心になる」「無心で~する」という。それはぼくにとっては当たり前のことで、もし「自分」なんて意識していたら、こっ恥ずかしくてとてもマンガなんか描けないと思う。あの「無心」が、世阿弥の「無心」なのかもしれないということが、今夜のぼくにとっては静かな驚きだった。
ブログを書くために随分久しぶりにこの千夜を読んだら、なんだか泣きそうになった。マンガ家を目指していた時は、ぼくにとってマンガとは「外形を極微のところまで壓縮した栄華」のようなものだったのかもしれない。そして落ちぶれて絶望し、ぼくは自分の「数寄に対する執着にのみ頼ることが数寄」になっていったのではなかろうか。
だがセイゴオ先生と出会い、イシス編集学校での、守・破・離と、花伝で学んだことで、ぼくは子どもの頃、ただ無心になってマンガを描いていた頃の気持ちを思い出し、『侍JOTO』をなんとか最後まで描くことが出来た。先生との対話を通じて、先生のお蔭で、ぼくはたとえ一人でも二人でも、自分のマンガを誰かに見てもらえるだけでも幸せだという気持ち、描くことそれ自体がおもしろくて楽しくてたまらないという「幼心」を取り戻すことが出来たのだ。
一体これから、無常を編集として使っていくにはどうしたらいいだろうか。
無常を直接編集に使うことは難しいかもしれないが、ぼくもみんなもいつかは必ず死ぬというこの根本的事実を、編集の契機として生きること、無常を編集エンジンにすることは可能なのではないだろうか。
夜焚火や火の粉も吾もモナドなり