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千夜千冊1783夜、ゴットフリート・ベームさんの「図像の哲学」を読んで思い浮かんだことを書いています。
冒頭、セイゴオ先生が、かの桑沢デザイン研究所の写真科にて、イメージについての講義を担当してほしいと頼まれたときのことが語られている。何度か聞いたことのあったお話だが、どんな授業をしたのか知ったのは初めてだ。こんな面白い実験なら、写真家を目指してなくても学びたいという人が来るというのも頷ける。
あらためて言うことでもないけれど、絵画やデザインや写真や楽曲などは、それ自体で「何か」をあらわしている。この「何か」とは興味、共感、技法、違和感、思い出にまつわるもの、メッセージ、自分の故郷、創作衝動など色々ある。そこにあるのは「なんらかのイメージ」だ。
イメージは日本語では「印象」などという。イメージや印象には「表象・形象・心象」などが含まれる。ぼくたちは表現活動を通して、さまざまなイメージを抽出し、組み立て、会話をしてきた。
イメージは何も「作品」だけでなく、お隣さんの庭、畑で採れた泥付きのさつま芋、旅行雑誌に載った温泉の写真、ジョウロの持ち手にぶら下がる蟷螂、長い間使わずに一塊になってしまった氷、女性の上司のラメ入りのアイシャドウにもイメージがくっついている。そこからも表象・形象・心象がやってくる。
普段出会っているものは、それぞれイメージをもってはいるものの、相当注意しなければ、もしくは事件でも起きなければ通りすぎていくものなのだ。だから表現者たちはスケッチをしたり写真を撮ったりするわけだが、自分の視覚とイメージと表現のあいだには、さまざまなズレや勝手な強調や無意識の歪曲や付け足しがおこる。
ぼくはそれを「妄想」と呼んでいるのだが、多分イメージするのは好きなほうだ。けれどマネージという言葉はずっと特別なビジネス用語だと思っていた。しかし先日あった花伝所のプレワークで見ることになった奥本さんの動画の説明によって、例えば「マンガを描く」のだって、「マンガのイメージを描くというマネージメント」なのだということがやっと分かったところである。
イメージとマネージの間にとる夜食
今夜の問題はイメージのほうだ。ぼくたちが「何をもってイメージと見ているのか」、人類の歴史の中、あるいは一人の人間が成長する過程で「いつどのようにイメージするプロセスを振り返れるようになったのか」ということは、けっこうな難問だ。
プレワークの講義の動画では、『才能をひらく編集工学』の著者である安藤さんが、黒板のドローイングでの説明が秀逸だった。久しぶりに黒板に書かれた文字や図像を追いながら、その説明を聞きながら書きとるという日本の学校式の勉強をしたわけだが、指導する側が社会の問題と、自身の意識と、講義の内容を見事につなげていたことも手伝って、この古典的な方式は思考の追跡にかなりの力を発揮するのではないかと思った。そして気づいたのだ。奥本さんや安藤さんの講義のマネージメントが、ぼくのしてみたい勉強会のイメージになっている。
先生も子供の頃や若い頃の思い出をたどって、そこに出入りしてきた大量のイメージが、いつしか編集工学の材料になっていたと述べている。
本書は「イメージはどのようにして意味をもつのか」という問いからはじまっている。著者のゴットフリート・ベームはドイツの美術史家で、遠近法やイコノロジーの研究をしている。 ベームは解釈学(Hermeneutic)に依拠してさまざまなアーティストの作品を分析し、イメージをつくっている主要なものは「像ないしは図像」(Bild)なのだとみた。
また、ベームは対象や現象それ自身が「存在する」ことによって何かを見せていること(Zeigen)を重視した。それは外見的な様子のことだけではない。例えば「ぼくのおばあちゃんがそこにいる」ということには、外見だけではないものが含まれるという例を先生は持ち出している。ぼくはこの例えに感嘆したのだが、おばあちゃんもイメージやイメージの束なのである。
そうした「もの」や「こと」が「見せていること」は、ぼくらにの知覚・認知・記憶・表現をゆさぶっている。それなら、そのイメージをあらためて表現するということには、どんなしくみが作動しているのだろうか。
ぼくがマンガを描くのは、結果的にはまぁ「見せる」という行為だ。その「見せる」には、何かを直接「語る」ための習慣や文法や解釈とは、異なる作用が出入りする。そこにはペンや紙や墨汁などの道具もかかわるし、なにより「見せる」が成立するのは作品を成立させている何かが「見ることによる解釈」をもたらしているからなのだ。
「語る」も「見せる」も意味を生み出す、その意味はどんな表現にも共通するだろう。 つまりイメージの正体は意味の暗示なのだ。先生は暗示された意味には「単語の目録/イメージの辞書/ルールの群」が総動員されるとみなしている。
ぼくたちには、既に対象のイメージを通して、そこにひそむ意味を掴むメタ・ホドス(方法)が内在しているというのである。それをわかりやすくいうとぼくたちは「感知力」(Gespür)のセンサーを持っているということになるのか…。
ただしこの感知力は外に出そうとすると差異となって表れる。この外在化のちがいをもたらしている「イメージの正体」こそが、本書では「図像」(ビルト)とされている。ビルトの本来の語義を日本風に感じとると、「面影」といったところになる。
千夜千冊本編では、ビルトをめぐる様々なアート作品が紹介されているが、表出や表現についての科学は、まだできあがっていないそうだ。たしかにアーティストやミュージシャンは「ひらめき」やインスピレーションによると言いたがるし、認知科学はそういうセンスと相容れないように見える。世の中の「作品」を見れば、だいたいのことは記号と様式と結び目の関係として見えてはいるのだけど、じゃあ君の作品のイメージとは何か、面影とは何か、ビルトとは何かと聞かれても(多分聞かれることは無いだろうけど)、ぼくもマンガを描いている今は、余計に答えようが無いように感じてしまう。だからぼくはマンガの内容以外のことを喋っているんだろう(笑)。
作品には、ぼくが生きている現代の文化や、ぼくの体験や心理が流れ込んでいる(と思うと恥ずかしい)から余計説明しにくいのだ。先生は無茶振りをしているワケではなく、作り手側を擁護しつつ、みんながイメージについて語るために「目利き」になるヒントを出してくださっている。
土曜の14〔離〕の集まりでは、押井守さんの千夜『世界の半分を怒らせる』について共読した。まだ内容に踏み込んだ議論とまではいかなかったけれど、これからの活動方針については、途中に出た『薔薇の名前』ドラマ化のことから『100分de名著』に話が逸れて、その場の流れで、じゃあ一人が一夜選んでナビゲーションする「10分de千夜」をしようということになった。錬成になりそうだ。
仮にぼくがこの本で100%自由に語ることができたなら、SFの『攻殻機動隊』と、現実の政府や通信大手や製薬会社や食品会社などの軍産複合体が人体実験として強行しているIOBとの違いについて話しただろう。10%程度でも、この本で押井さんの言った過去の心境は、2021年今現在のぼくの気分すぎる。
日曜は、先生が写真科を越境して講義をしようとしたらダメ出しされたエピソードから、イメージと越境の関係について考えた。
入伝生のある方が、ベジタリアン関連の海外ドキュメンタリーか何かを観て、途中まで宗教上の話かと思っていたら、テレビの中の若者は環境保護のためにベジタリアンになったと分かって驚いたそうだ。表層の「図」と、背景の「地」にイメージのズレがあったのである。
そのお話を受けて、ぼくは日本はベジタリアンも環境問題も、具体的な取り組みにまで発展しないところが悩ましいですねと言い、しかしながら日本には、精進料理という健康・環境・動物愛護といった現代の「地」の境界を超越した有機的な食文化があることを提示してみた。
『資本主義問題』エディションの講義で、講師のSさんも経済の専門家や一部の富裕層だけが経済について議論したり決めたりしていることが問題だと言っていたのも似た問題だ。ぼくたちの生存に関わる問題を、何故こっちの状況や心境をイメージしもしないのにテクノロジーを使って余計な自然破壊ばかりする連中に決められなくてはならないのだろう。
動画講義で奥本さんは「社会の中でマネージされすぎているものをどうやって再編集するか」が重要だと言っていた。ぼくがずっと「自分はマネージメントが苦手だ」と思っていたのも、マネージメントのイメージが固定化していたからだ。
イメージをマネージするには機会に目を向けることが重要だが、今夜のお話を読んで、その機会をつくるのに必要なのは「越境すること」、あるいは「境界そのものがめざめること」なのかもしれないと思った。
編集学校の師範代はネット教室の中に閉じこもって指南をするのではない。
編集的世界観から、編集的社会を描くのである。
首のばすキリンの図像天高し