太郎の母と架空日本文学史
- Hisahito Terada
- 1月21日
- 読了時間: 5分

千夜千冊歴象篇、415夜・大隅和雄さん、西郷信綱さんらによるの『日本架空伝承人名事典』、635夜・三浦佑之さんの『浦島太郎の文学史』、1244夜・石田英一郎さんの『桃太郎の母』を読んで思い浮かんだことを書いています。
イシス編集学校や編集工学研究所は、多読アレゴリアが忙しいのに加え、穂積さんが風邪を引いていたようだ。ぼくのほうも実は先週から、母とぼくとが二人して風邪を引いてしまい、母が肺炎になりそうで大変だった。日本中でかなり風邪が流行っているらしい。ずっと雪空や曇り空が続いているので、どれくらいケムトレイルが撒かれているのかも分からないが、セルタワーやWi-Fi、スマートメーターやスマホからの5G電磁波も人体に悪影響を及ぼす。それに気温の低さや冬場の乾燥、個々人の環境や体調も加えた複合的な原因によるのものなのだろうが、こうした、分かりにくい故に誤魔化されてしまっている被害や訴えを、どうやって掬いあげ、目に見える形にしてより多くの人に伝えるかが、自分の課題になっているように思う。
調子がいまひとつなのだが、どうしても急いでお礼を申し上げなければならない。
イシスコミッションの武邑光裕さんの「新メディアの理解」は毎回読んでいるけど、今回のお話は、ぼくのAIについての意見を掘り下げ広げてくださって余りある内容で、心を打たれた。
ニール・ポストマンという人を、ぼくは初めて知ったが、日本人がこれから世界の現状と向き合い、精神的に成熟していくためにも、メディアというものについての理解は欠かせない。こうした先人の見方を積極的に借りたいものだと感じた。
しばらくぶりのオツ千が三夜まとめて追っかけていたので、ぼくも1つの記事にすることにした(かなり無理くりなタイトルにしてしまった)。しかし民俗学や昔話がわりと好きな自分としては、この三冊はどれも読んでみたい。今年もこうしてどんどん脳内積ん読が増えていく一年となりそうである。
今夜の三冊は、日本の物語編集における虚実皮膜、フィギュールと面影の関係、物語母型の影響についてがテーマとなっている。
ぼくが小さい子どもの頃は、盆や正月に祖父ちゃんの家に親戚で集まる度、子供全員で祖父ちゃんの部屋に、布団を並べ川の字になって寝る習慣があったのだが、そのときぼくらは必ず、祖父ちゃんの家にある、箱入りの小さな童話本シリーズを一人一冊選んで読んでもらっていた。そのおかげか、ぼくはたいていの童話がアタマに入っていて、それは祖父ちゃんという翁の語りとセットになっている。しかし先生と同じく、ぼくも小さい頃は「かちかち山」や「舌切り雀」の描写をゲーッと気味悪く思っていたし、浦島太郎のような、終わり方がなんとも言えない暗い話は好きじゃなかったように思う。
それにしても、その浦島太郎におおよその作者の目星がついていたとは、今夜のお話に出会うまで知らなかった。浦島太郎といえば、ぼくの地元にも一風変わったヴァージョンがある。
昔むかし、一度海で遭難か何かして戻ってきた漁師の太郎が、自分は竜宮城に行ったのだと言いだして、村長の娘である許嫁や村の人々を心配させたという。そこで村長は自分の娘と、村の他の何人かの娘を綺麗に着飾り、太郎を竜宮城風にもてなしたとか。それで太郎は目を覚まして(?)、無事村長の娘と結婚したという、妙に現実的な伝承だ。
ひょっとしたら昔の海辺の人々は、行方不明になった人は竜宮城に行ったに違いないと思うことで心を鎮めたりしていたのだろうか。もしかしたら行方不明になった人や、村に戻ってきた人のことを”浦島太郎”と呼ぶ習慣があったのかもしれない。
たしかに人間はどこかへ旅に出ると、それなりに経験値が増す。ぼくも東京へ行って家に戻ると、家が小さくなったような錯覚を起こすことがあるし、あんまり華やかな経験をすると、日常に戻るとき少しぼーっとしてしまうことがある。もしかしたら竜宮城や玉手箱というのは、旅に出たり行方不明になった当人以外の周囲の人が「想像するしかない経験や災難」のメタファーなのかもしれない。
昔話でぼくが子どもの頃一番好きだったのは一寸法師かなと思う。小さいヒーローが活躍して、大きな相手に挑むというパターンに、ぼくは燃えるようだ。そうした負からの逆転劇が「富の秘密」までもを暗示しているのも不思議だが、今夜のお話に出ていた「水」と「母」と「子」の異常とは、ぼくは早産などの人体と「マーテル・ナトゥーラ」(母なる自然)との関係とか、あるいは間引きの「アブジェクシオン」(おぞましさ)とか、そういうことを暗示しているのではないかなという気もする。
世の中の出来事が語り継がれながら物語になっていくように、ぼくにとっては、ブログで千夜千冊を追いかけながら、日々のあれこれや自分の感じたこと、世の中で起きていることを結び付けるのは、セイゴオ先生との時空をまたいだ相互編集だった。
その先生の愛したこの国が、危機的な状態にある。
今一番話題になっているのは「食料供給困難事態対策法施行令」という、減反政策に加え、農家をますます追い詰めて日本の食料自給率を下げようとする悪法についてだが、それ以外にも増税や賄賂や天下り、10年ビザに加えて外国人参政権を目指す動きにと、ますます売国化が進んでいる。食料供給困難事態対策法については、パブリックコメントを募集中だ。
一体どうすればよいのか。今のところ個人的に出来ることは、家庭菜園をしたり、食べ物を大事にすること、農家さんたちを応援すること、情報を共有し続けることくらいである。
先生は、石田英一郎さんのこととしてお話していたが、「世界知と共同知と個別知の関係を、西洋・東洋・日本をまたぐ世界読書を通してつなげていく」「それを一人でやろうとするのではなく、その効果よりも、多くの他者の業績を組み合わせ、総合編集する」とは、まさにセイゴオ先生のしていたことではないかと思う。
先生はいつも必要な時に必要な言葉をくださる。姿は見えなくても、インタースコアはずっと続いているのだ。
ものがたり乗せて布団は夢の舟