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女性・ネイティヴ・他者

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

千夜千冊1826夜、トリン・T・ミンハさんの『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』を読んで思い浮かんだことを書いています。

https://1000ya.isis.ne.jp/1826.html  日本では最近LGBT法案が成立したが「LGBT理解増進法ができても、性別を自称さえすれば、トイレや公衆浴場といった男女別の施設を利用できるわけでもなく、男女別施設の利用基準を変えるものでもない。」という点が、多くの一般男女に伝わっていない。そのせいで「女子トイレや女湯に、女装した変態の男が入れるようになる」と、誤解と偏見が混ざったまま、性的マイノリティを憎悪する言動が繰り返されている。これでは結果的に、多機能トイレが増えるといいなと思っているだけのような、犯罪者でも何でもない一般のマイノリティの子どもを含む当事者たちを、余計に追い詰めているだけだろうと思う。  今夜のお話はジェンダーとエスニティがテーマとなっている。性とは何か、民族とは何かということだ。著者のトリン・T・ミンハさんはアメリカの帝国主義と中国の共産主義に祖国を引き裂かれた、ヴェトナム南北分断の1953年に生まれ、ずっと自国と出征への問題意識を持ってきた。  ぼくたち日本人の場合は、テーブルの下で手を組んだ米英帝国資本主義と中国のデジタル共産主義に挟まれて、マイナンバーカード→マイクロチップ(獣の刻印)による超監視社会化がデジタル庁によって進められているのだが、ポストコロニアリズムという点では、時を越えて同じような立場にある。ポストコロニアリズムとは、経済や文化、政治にある植民地主義の影響を明らかにし、現状を変革するための思想だ。  ミンハさんの作るドキュメンタリー映画やエッセイは、セイゴオ先生曰く、西洋のミンチボール化したフェミニズムではなく、抵抗の多様性がアートとともにあらわされており、複合や折り重ねを辞さないという特徴を持っている。彼女のように洗練されてはいないが、ぼくが今マンガを描いたりブログを書いたりしていることも、目的の一面としては似ているところがあるようだ。  ミンハさんは「何が文化をアイデンティファイしてきたのか」「そのうちの何がまやかしだったのか」という問いをもって作品をつくってきたのだという。

 「何が文化をアイデンティファイしてきたのか」というのは、ぼくは「何がその文化を、自国の文化だと認めるものにしてきたのか」という意味なのだろうかと理解した。たとえば日本では多くの人が、結婚すれば女性が夫の名字になるのが日本古来の伝統だと思っているが、夫婦が同じ「家」の名字にすると決められたのは明治時代からのことだ。同じく異性装も明治になってから法令により禁止された。同性愛者や、今でいうトランスジェンダーのような人々が蔑まれる動向は、「産めよ増やせよ」の富国強兵が奨励され、家父長制と国民の管理が強化される、軍国主義への流れの中で次第に強くなっていったのではないだろうかとぼくは考える。

 こうしたことは、先日の古代史の例で言えば、縄文=獲物を殺して肉を焼いて食ってる野蛮なイメージという「まやかし」となにか似ている。しかし本当は、生まれつき足の萎えた障害者の男性を、足手まとい者として殺したりせずに、共同体の中で世話してきたというような考古学的証拠を持つ縄文人は、自分たちが幸せに生きるために必要なのは、生産性の追求ではなく、多様性による精神的な豊かさであることを、現代人よりある意味知っていたのではないかと思う。  ケムトレイル線状降水帯や台風の影響で寒暖差が激しかったせいか、ウィルスでも撒いているせいなのか、最近風邪をひいたのと(母も鼻風邪が酷い)、イシスの短期の仕事が重なって、すっかりこちらが遅れてしまった。その仕事では、ぼくより若い人たちを相手に指南をすることとなった。編集学校とは勝手が違い、難しいところもあるが、他者の中にそれぞれの美点を見つけることができる指南のやりがいを、ひさびさにあらためて感じた。ある人は最後の課題に自分の言葉を思いきりよく表現し、またある人は読書に苦手意識があったようだが「今日本を買いました」と伝えてくれた。こんなことがあるんだなぁ。この仕事をして本当に良かった。ぼくは師範代をした去年を想起し、破の師範代をしてみたい将来に思いを馳せた。


読みふけて新書真夜中星涼し

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