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定家明月記私抄

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 


 千夜千冊17夜・意表篇、堀田善衞さんの『定家明月記私抄』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 そんなつもりはないのだが、オンライン作業にも関わらず、ぼくのおっちょこちょい具合が職場にもちょいちょいはみだして、だいぶバレてしまっているのではないかと思われる。ただ、少しづつ時間との折り合いのつけ方が分かりかけてきているような気もする。ともかく一つづつ、がんばろう。

 

 今月の14離企画会議は、イシグロ師範に加え、テイラーTさんやノズミンも参加してくれて賑やかだった。課題本は『ユリイカ』だったのだが、セイゴオ先生とかかわりの深いさまざまな人からの寄稿や、先生が昔書いたものが集められた特集で、かなり量があり、14離のみなさんもそれぞれのロールやお仕事で忙しいこともあって、なかなか読めなかったそうだ。ぼくはやっとこ一回は通しで読んだのだが、二回目はまだ荒俣宏さんと高山宏さんの対談までしか読んでおらず、内容を掴めたとは言い難かった。

 うろ覚えだが、たしか一人一人が気になった記事を選んで感想を述べるというお題だったので、ぼくは大澤真幸さんの「単独者松岡正剛を反復すること」を選んだ。この記事で大澤さんは、これから日本人は世界とどのように向き合っていったらいいか、なぜそのために編集工学が、松岡正剛を反復することが必要なのかを、編集学校でお馴染みの3A(アナロジカル・アフォーダンス・アブダクション)を交えながら、編集学校以外の人にも分かるように説明してくださっている。

 

 ぼくにはその様子が、つまり大澤さんが、セイゴオ先生の編集工学を通して見えてくる方法日本を語ろうとしていることが、今夜のお話で先生が、定家の歌を通して見えてくる日本文化の真髄を語ろうとしていることと重なっているように感じた。

 

 この千夜が書かれたのは、イシス編集学校と千夜千冊がスタートした年である。『情報の歴史21』には、社会の液状化が顕著になり、メディアのコングロマリット化が進んだとある。社会の液状化とは、伝統的な枠組みや地域社会のつながりが解体し、個人が個人主義的な自由を謳歌できるようになった一方で、全てが”自己責任”になったということ。メディアのコングロマリット化とは、放送、新聞、映画、出版、インターネットなどのメディア・コンテンツを巨大企業が一手に引き受けるようになっていくということだ。欧米グローバリストはこのメディア支配を、洗脳と再植民地化にフル活用した。

 その結果日本国民は、田舎には何も無く、ショッピングモールや映画館やテーマパークがあることが豊かだと思うようになり、山を削り森を壊し海を埋め立て汚染し、地域に古くから伝わる行事や祭りの意味をすっかり忘れ、世代間を超えた人とのつながりを古臭くダサイものと思うようになり、芸能人やセレブこそが身近な友達で、隣にどんな人が住んでるのかもよく分からない社会が到来した。

 そんな中で、当時危機感を持った人々の多くが、日本の伝統文化をどうして未来につないでいこうかと検討をしたものの、文化施設という名のハコモノを造ったり、祭りをイベント化してしまったりと、結局「ない」から「ある」ばかりを目指していたため、先生はこの千夜を書かれたのではなかろうか。


 定家が「風儀」という一つの文化を残して以来、日本人は古くから「ない」から「なる」への創発を起こしてきた。定家の歌を通じて、先生はその忘れられた方法を思い出してほしいと思ったのではないかと思う。

 

 ぼくは今夜のお話で、紫式部の「あはれ」や清少納言の「をかし」、和泉式部の「夢うつつ」とはまた違ったリアル・ヴァーチャルのあり方を知ることができた。オツ千の「なり・ふり・ながめ」も型であり、そこに注意を、心を注ぐことによって情景が立ち上がるという解説に、守コースの「コップ」や「注意のカーソル」を思い出した。

 

 ぼくたちにとっては、今やたくさんの言葉をもって編集工学を残したセイゴオ先生こそが「そこにいていない先生、そこにいなくている先生」なのだ。

 今夜のお話では、ぼくはとくに最後らへんの、下記の先生の言葉が響いた。

 

―― 何もそんなことに腐心することはない。紹鷗が、利休が、遠州が、定家の歌に戻ったことを凝視すればよい。そこに風儀を見ることだ。「なり・ふり・ながめ」を介在させることだ。 

 

 いま、ぼくたちの多くは編集工学をどうして未来につないでいこうかと必死に考えているけれど、ぼくたちはまず、『ユリイカ』で田中優子学長が、大澤さんやISISコミッションの方々が、田母神方師をはじめとした火元のみなさんが、セイゴオ先生の残した言葉に戻ったことを凝視したらよいのだろう。

 

―― それにはまず、心が歩むことである。そこに言葉を添わせることだ。そして心で見渡してみる。そこにはいろいろなものがあり、いろいろな出来事がある。けれども、そこには「ない」ものもある。言葉も、その「ない」をあらわしたい。

 

 11月は月末頃母が捻挫して、色々な方法で治療したりした。経過は良好である。今年もあと約ひと月。来年は、もし破の師範代ができたらその後で、できなかったら共読ナビやエディットツアーをしながら、先生からの課題本(と、ぼくが思っている本達)を読み、新たなマンガの準備を始めようと思う。

 

 神仏なきゆふぐれに降るる雪

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