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千夜千冊1770夜、ミシェル・セールさんの『小枝とフォーマット』を読んで思い浮かんだことを書いています。
(01)肺ガンになったセイゴオ先生は、手術を前にしてミシェル・セールの『小枝とフォーマット』(2004)を千夜千冊することにした。千夜千冊本編についてくる動画はいつ撮られたのだろうか。ぼくはこんなタイミングで難解な一夜に集中できるか分からないけれど、ともかく編集稽古がてらブログを書いてみようと思う。
歴史はつねにフォーマットを形作ってきた。科学とはフォーマットの発見で、近代国家とは、銀行や軍隊など世の中のフォーマットを集めて「近代国家」という看板を上げることになっただけのものだ。世界はフォーマットなどではないのだが、「そこ」にはデフォルト(default)が設定され、標準値設定のフォーマットがない世界は世界として世間に認められなくなった。ただしフォーマットさえあれば、その上に乗るコンテンツはいくらでも更新可能というわけだ。
ミシェル・セールはこのような世界樹に茂った枝を初期化(フォーマット化)して、そこに見えてきた「幹」から新たな「小枝」がどんなふうに組織化していくか見てみるつもりで本著を綴った。
(02)先生は、セールがフォーマットとは「創出よりも模倣を促す力」をもつことだとみなしたことに注目した。その例えとしてフランスの刑務所と高校の建築様式が似ていることや、パソコンのフォーマット化が上げられている。ぼくは日本の学校と刑務所は建築以外の基本フォーマットもよく似ているように思う。
セールとしては、「本来のフォーマット化」には、ギリシア語やラテン語を話していた者たちが大切にしたデーウゥティーオ(献身)のようなものが作用していると見たかったのだ。表記法は言語部族や言語才能によってもたらされるけれど、それがフォーマットになるには何か「とてつもない機能性」が作動して、かつ「献身」しなければならない。同じ献身でも、ホメロスと本居宣長では真逆のフォーマット化が起こった。じっくり育てた40年の梅が古事記で、六脚韻満開の桜がホメロスなのである。
(03)セールには『アトラス』(1994)という一冊もある。アトラスというと天空を支える巨人だが、ここでは「地図帳」(アトラス)を意味する。千夜千冊にあげられた例を眺めてみると「スコア」のようでもあるが、「場」のような広がりも持っている。アトラスが地図上に何を刻印させるかということと、そのアトラスをどんな描き方にしておくかということは、別々の問題なのだ。セイゴオ先生は『遊』をしていた頃、杉浦康平さんの「犬地図」に関わったり、新幹線の左右の車窓から見える景色をギュイーンと歪めてつなげたイメージマップの制作に携わった。セールはこのようなアトラスの上で「世界」が増殖(multiplication)と内含(implication)をくりかえすことに注目し、とくに戦争における戦略と戦術のためのアトラスが世界史の大半をつくってきたことを強調した。
(04)先生によると、セールのように「歴史の解釈系」と「情報の仮想系」を相互につなげながらキリなく書ける哲学者はいないとのことだ。ぼくなんか千夜千冊を要約するのも簡単ではないし、すぐに誰か、というか世間に文句が言いたくなる。先生はセールがそうならない理由を、彼独自の職人気質によるものだと考えた。
セールの文章を読んでみると、まるで彼が千夜千冊上で、マスコミもネットメディアもメッセンジャーばかりの、昨今のことを言い当てているようだ。そんなあいかわらずのご時世に対して、セールはひたすら歴史の中に忘れ去られた語彙によって何かを暗示したり、そこから反転したり飛翔する独特の語り口によって世界を演奏してきた。「そこ」にはどんな小枝であっても、ホロニックな全貌の共鳴を感じさせる全思想の要約があるのである。
たとえば千夜千冊の一文を分けてみると以下ような構造があらわれる。
歴史とは
A労働と仕事の三幕のドラマ B人物像や主役たちの三つの集団
・重いものを担う …アトラスとヘラクレス
・物を熱する …プロメテウス/マクスウェルの魔物
・情報を伝達する …ヘルメスと〈天使〉たち
C物質の三状態 D三つの時間
・固体 ・可逆的時間
・液体 ・エントロピー的時間
・揮発性 ・ネゲントロピー的時間
分けた後残ったものをつなげると「歴史とは、人間とその諸技術の歴史、科学の歴史、力学のあとを受けている…」というようになる。
ここで気を付けたいのは、セールはぼくたちが「メッセンジャー」であることに対し警告をしているわけではなく「たんなるメッセンジャー」になっていることを危惧しているということだ。千夜千冊には「そこに働いている者たちの”働きアトラス”は、さまざまな電子コミュニケーション器具の中の半導体チップによる”回路アトラス”にすっかり握られている」とある。ぼくはこのここの文意上のアトラスは単に「重いものを担う=責任を負う人間がいない」という内容を伝えているのではないと思う(文脈によってはそういった意味だという見方もできる)。
コミュニケーションにおける”働きアトラス”とは言霊だ。メッセージ(言葉)を発するにしても、そのメッセージを乗せるメディア(コンテンツやデモ行進や署名)のフォーマットが、マスコミやSNSやYoutubeなどのシステム(回路)に、社会を動かすための有効性や起爆性の力を握られていることが問題なのではないかと感じる。だからぼくは「もっとはみだすべきなのだ」というメッセージだと解釈する。暴動を起こせというようなことではない。言い換えると、もっとアナロジーやアブダクションを全開にして、既存の回路や概念を越えなさいということなのだ。
(05)先生はミシェル・セールは共読にこそふさわしいのだという。こうやって解読していくと見方によっていくらでも意味が取り出せるようでおもしろい。イシスの共読ではお馴染みの、ミシェル・フーコーやフェリックス・ガタリ、アントニオ・ネグリと同世代。そしてなにせ師匠にライプニッツやプリゴジンの散逸構造論が君臨しているところが、編集工学を学んでいく上で、かかせない人なのだということを予感させる。
(06)セールを理解できる哲学者は少ないらしい。ぼくもまだ出会ったばかりで、エセー風の仮留め回答をしているだけだ。ただブルーノ・ラトゥールの千夜千冊は〔離〕の火中だったため、感想が書けなかったものの、振り返ってみると「準-客体」(Quasi-object)というのは、こうして千夜千冊の要約をしながら、解釈を試み、自分の考えとセイゴオ先生の思索と著者の考えをまぜこぜにしている「擬き」っぽいようにも思えてくる。ぼくが言うのも妙な気分だが、ラトゥールも質問をぶつけるより「準-客体」を実践し、セールを擬いてみたほうが、哲学に科学的な見方を持ち込んだ「スタイル」の価値が分かったのではないだろうか。
(07)「総合化をしつつも瀘過を試みる」「過ぎ方」に潜む雑音や寄生に注意を促すというのは、先生の著書『空海の夢』にもあった、消息をとらえるためのスクリーニングのことではないかと思った。ぼくはお釣りなどの計算もままならない算数障害なので「三体問題」などはさっぱり分からないが、創発カオスや偶然というヒントをたよりにすれば、退院した今なら、セールの問題にしている「三つ目」がどういったものかを経験的に「感じる」ことはできる。
たとえば千夜千冊本編(07)の「指一本」というキーワードでふと思い出したことがある。〔離〕の「表沙汰」で、Iさんが先に告白してしまったため言いそびれたが、実はぼくもIさんと同じく、ほぼ人差し指と中指でしかタイピングが出来ないのだ。グループワーク最中に指が痛くなって、同じ院の仲間に、特にTさんやHさんに随分助けられた。課題が終わった直後は、あのとき他にどうすればよかっただろうかと反省ばかりが頭に浮かんだが、今は偶然によって縁が深くなったことが嬉しい。
こんなことは定義したところで運動化などできないし、ぼくたちは同じ思想をもった運動体などでもない。むしろバラバラな職業や立場の者たちが集められ、何が起こるか分からない状況で、稽古で身についた方法と心構えだけが揃っていたから偶然を迎えに行けたのだろう。
先週のブログで俳句ができたのも、稽古の課題ごとに見事な俳句を作っていたI・Yさんの真似を接ぎ木したものなのだ。ブログ自体、ぼくが主体になっている部分なんて無いに等しい、共可能(com-possible)連続状態の一本の小枝なのである。
(08)セイゴオ先生は『生成』(1982)を読んだ当初はセールの本意に気が付かなかったのだという。セールは「ノワーズ」(noise)こそが、理解しがたいものなのに惹かれる「概念をこえるもの」の生成であるとみなしていたのだ。
ぼくも今までの学びや今夜のお話がなければ、生成には宇宙を自由自在に支配コントロールするためのヘルメス的な秘密があって、セールがその方法をややこしく説明していると思い込んでしまったかもしれない。
セールはわざとモノゴトを分かりにくく言っているのではなく、彼自身が「理解のアルゴリズム」以上に「察知のアルゴリズム」に強いのだ。加えて彼は世間の正統派組織がこぞって陥っている「差別していないふりをするカムフラージュの知」、きっと「理解しているふりができるカムフラージュの知」に冒されないようにしてきたのだ。
ぼくは理解どころか知らないことの方が多いくせに、トイレ掃除の仕事やサービス業のアルバイトを通じて、カムフラージュの匂いだけ嗅ぎ取れるようになってしまったように思う。エライ人たちにとっては、自分たち以外の人間は所詮愚かな家畜にすぎないので、自動処理でシンプルかつスマートに、効率的に管理したいのだろう(そんなツルツルの社会では、ノワーズはますます遠くなる)。彼らはぼくらに稼いで消費する以外のことについて…たとえば世界の奥や学ぶことの意義について…いちいち手間暇をかけて、深く広く大きく学ばせる必要などないと考えているのだろう。
(09)少しはちゃんと何かを学べただろうか。はじめてのミシェル・セール体験にくらくらするだけの一夜だったのではないかと感じている。先週は五十嵐ジャンヌさんの『なんで洞窟に壁画を描いたの?』を読み、今は火中にじっくり読めなかった阿部博行さんの『土門拳』を読んでいるが、読みたい本だけがどんどん増えていき追いつかない。
セールは最晩年に『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(水声社)という一冊で、フィリップ・デスコラのトーテミズム、アニミズム、アナロジズム、ナチュラリズムの4区分けを踏襲して、世界を或るフォーマットにしながら分岐させることの自由度を解読してみせた。
手術直前の先生による大サービス・イリュージョンは、セールをとうとうたらりした、乾坤一擲の生成術なのである。かわるがわる、今度はぼくらが「生体や歴史の中のエルゴード性」にもとづきながら、五月の風にそよぐ言の葉に出入りする、天使の消息を察知し表象する番だ。
万緑の詩アトラスに共鳴す