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心とことばの起源を探る

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1816夜、マイケル・トマセロさんの『心とことばの起源を探る 文化と認知』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1816.html  神さまは時々とても不思議なことをされると思うことがある。

 イシス編集学校の「破」の44期学衆だったころ、プランニング編集術で、ぼくは福岡市にある「海の中道海浜公園」を舞台にミュージアムの企画を考えた。「離」を退院後花伝所で学び、49守の師範代を務めて、ぼくの教室の学衆さんだったみんなが「49破」を受講するようになったこの度、ぼくは14離の仲間との企画会議の「ノリ」が転移したことで始まった「文字のバー」について、49破の学衆さんに併走するつもりでプランニングをした。「幕末スサビ教室」をされていた先輩師範代が、文巻からヒントをくださったおかげで、自分なりにワクワクするイメージが湧いてきた。そこへある知らせが来た。    福岡市長と市議会の主に自民党公明党関係者と関連企業が、海の中道と志賀島の自然を破壊し、巨大カジノリゾートをつくる計画を誘致しようとしているという。寝耳に水の計画に対し、現在書面だけで計11,119人の市民が「自然との共生と調和による豊かな暮らしを守りたい」との意志を表明している。オンライン書名はまだまだこれからだ。


 志賀島は福岡県福岡市東区にあり、砂州により本土と陸続きになったモン・サン=ミシェルと同じ陸繋島だ。諸説あるが金印の出土した歴史的な場所としても有名である。志賀海神社は綿津見神(ワタツミノカミ)を祀っており、年2回行われる神事、山誉め祭の神楽歌の冒頭は「君が代」と同じで、この神楽歌が「君が代」の起源だとする説もある。南部と西部は博多湾に接し、北部と東部は玄界灘に接する、多様なグラデーションの緑と青色の自然に囲まれた美しい島である。  カジノリゾート関係者は、地元の人々に知らせずに計画を推し進め工事を強行し、島の自然と住民の生活を蹂躙するつもりのようだ。文化施設を作ると称し、須崎公園の大樹を無残に掘り起こして、雁ノ巣レクレーションセンターに粗雑に埋め、公園を守ろうとした地元の人々を傷つけた時と全く同じような、なんとも汚いやり方である。 「福岡の良いところは都市と自然が近いこと」なのに、その身近な自然をことごとく潰してしまっては魅力の欠片も無くなることが何故分からないのだろうか。福岡にはすでに大型商業施設は腐るほどあるし、博多や天神の奥の方や中州など、繁華街や温かみのある古くからの商店街もあるのに、なぜ今あるものを活かさないで次々と自然破壊をしていくのか。  天神ビックバンとかいう再開発のために神社の木や街路樹の多くを伐ったことで天神は大通りほど空気が淀んで臭くなった。環境に無関心な政治がはびこると街が臭くなる。ご愁傷様だ。  彼らはハコモノ事業ばかりで、きっと人がおもしろいと思う「コト」(物事のコト)を作れないのだろう。自分を質に入れるつもりはさらさら無いが、ぼくが「破」で考えたミュージアムは、環境に負荷をかけず、ほとんど今の海の中道海浜公園にあるものだけで出来るし、地域活性化にもつながるし、文化事業や文化交流を重層的にいくつも創り出せるハイパープランになっていたぞ(と言っておこう)。  ただしそれは編集学校のお題と型の力であり、ぼくの所属していた「四歩八歩教室」の師範代の指南と師範のサポートの力だ。そしてきっとぼくのプランニングが、玩具やテレビゲームではなく、子どもの頃の松林の中での探検と想像に発していたからだと思う。  今夜のお話のテーマは、子どもの教育と学習である。大人たちが大人の都合で考えた子供の教育を「思考と言語の土壌」に戻って考えなおすべきではないのかと思ったのがレフ・ヴィゴツキーであり、そのヴィゴツキーを継承したのがマイケル・トマセロだ。    トマセロは、生後9カ月から12カ月の「9カ月革命」の時期に、幼児はジョイント・アテンション(joint attention)=「共同注意」をしはじめ、物事と自分と他者とを連動させるZPDにさしかかっていくことで、劇的に変化するのではないかと考えた。   赤ちゃんは喋る以前から「見つめる」「さわる」「声をだす」ことでプロト・カンバセーション(原会話)をしていると考えられており、研究者の間ではもっぱら原会話は母親とのターンテイキング(turn taking)によって引き起こされると想定されてきたが、最近では「協調行動」(joint engagement)とか「情動調律」(affect attunement)など、もっと共社会的な「やりとり」が始まっているのだと考えられるようになった。  つまり子どもにとってはお母さん(家族)とのやりとりと同じくらい、他者とのやりとりが重要なのだ。千夜千冊本編では、イシスのビブリオテカール・寺平さんと、「悠阿弥アメリ教室」の仁禮師範代のお子さんYUTOくんの、セイゴオ先生との間に起きる「共同注意」が微笑ましい写真になっている。  YUTOくんに、朝ドラのHARUTO兄ちゃんに、HISAHITOに…「悠人」という名前が一時的に流行っている(???)のかどうかは知らないけど、ぼくの身近にも丁度YUTOくんぐらいの甥がいるので、彼がよく始発的なジョイント・アテンション(joint attention)を起こそうとしているのを目にする。しかし甥の身振りや指さしに、姉や祖父母(親父や母)が対応できているか、「共同注意場面」を作り出せているか…というと、わが家ではみんな家に居て、テレビがついていて、大人がスマホをしているときなどは全くダメだ。甥にとって一番いいのは、祖父ちゃんや祖母ちゃんやママと散歩に行って、虫や小鳥や犬を連れたご近所さんに出会うような時ではなかろうか。国民総スマホ時代となって、さらにマスクをつけるようになって、特に社会的な「共同注意」は起きにくくなっているように感じる。  ぼくは未来を憂いている。同時に「諦めてはならない、なんとかしなければならない」と思い続けている。教育や学習については、イシスでは佐々木さんや編集かあさん、ぼくの教室の師範でもあった”守”護神K師範が編集とうさんとなって「子ども編集学校」をがんばっておられるようだ。  貧困など教育以前の問題も根深く、給食しか食べれないような子が、昆虫食など政府と企業の人体実験の食い物にされている。一方でぼくの友達や、多くの自然栽培・無農薬無化学肥料の有機栽培農家さんのように、食から社会を支えようと努力している人々もいる。私腹を肥やすために故郷の自然までもズタズタに破壊する浅ましい者もいれば、環境再生医・矢野智徳さんのように、日本各地を飛び回り、生態系の回復に全力を尽くしている人もいる。  ぼくには何ができるだろうか。人々をつなぎながら、たくさんの「コト」を起こしていけたらいいのになと思う。   松風と駆ける子の目に春の海      

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