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千夜千冊1827夜、カミール・パーリアさんの『性のペルソナ 古代エジプトから19世紀末までの芸術とデカダンス』を読んで思い浮かんだことを書いています。
根本のQが湧いた。 ぼくはエミリー・ディキンソンという人が、バイセクシャルかトランスジェンダーなのかは分からないが、物書きが別の性のペルソナをつけることなど、特に不思議なことでは無いのであまり驚きはしなかった。
今夜のお話は、論理的なスジは分かるのだが、ぼくはには、著者の気持ちを半分くらいしか理解できなかった。簡単に言うと著者に言動に共感できるところがあまり無かった。
前半の「ペルソナ」についてはなるほどと思えた。
近代国家が軍事力と産業力によるパワーピラミッドで構成され、社会は役職・役目・役柄を重視する男性ペルソナが牛耳ることになっていったという。そうして「役による個性」がもてはやされ、そのことと「才能」が結びつけられ、それが政界から学校、企業から家庭、スポーツから芸能にまで及んだ。
そのペルソナに対し、従来のフェミニズムは『アナと雪の女王』的に「(仮面を被らず)ありのままでいい」と歌ってきたわけだが、著者は「そんなことなはい。仮面こそが当事者なのだ」と主張する。その点についてはぼくも、雪の女王エルサだってメイクをバッチリ決めて、ドレスアップの変身を楽しんでいたので、たしかにあれも新たなペルソナだよなと思ったのだ。
ぼくは世間が個人に押し付けるペルソナにはうんざりしているが、個人が自らペルソナを被ってキャラクターになったって、それはそれでいいのではないかと感じている(ただ老いへの恐怖から整形を繰り返すとか、首相や大統領用ゴムマスクで既成事実を作ろうとするいうことになると話が変わって来るが)。 多分ぼくが著者に共感できない一つの要因は、今夜のキーワードの半分くらいを占める、デカダンやら、サド趣味やら、ドラッグカルチャーに関心が無いというのも大きいのかもしれない。ぼくはデビッド・ボウイのことをよく知らず、マドンナのミュージックビデオの作りは少しおもしろいと思うが、音曲と歌声が特にあまり好きではない。だから共感できないのは個人的な嗜好の問題だろうと思う。 マドンナもデビッド・ボウイもセレブ世界の闇には詳しかったのだろうけど、悪魔崇拝のパトロンや関係者を上手く利用しつつも、自身はギリギリ実際の小児性犯罪には加担しないように、距離を取って来たのではないかとぼくは考えている(もしかすると成分を知らされず、アンチエイジングだとか騙されたりして、アドレノクロムを打ったことはあるかもしれないが)。 しかしそれとは別に注意したいのは、この著者の世界観は、西洋のセクシャリティやフェミニズムの歴史について言えることであって、彼女の主張やパフォーマンスが、世界中のLGBT全員の気持ちを代弁しているなどというわけでは無いということだ。そんなことは当たり前なのだろうが、そうでも言っておかないと、神話的なダイモーン(精霊)と、宗教的なデーモン(悪魔)を分けて見ない人、また性的なマイノリティの当事者たちを、一人ひとりの生きている人間として見ない人によって、そぞろ「ほら見ろ、LGBTは変態だ。小児性犯罪のセレブと同じ悪魔崇拝者だ。」という誤解と偏見が広まりかねないというのがまことに困ったものだ。
つまり民主党ディープステートなど欧米旧勢力は、LGBTを小児性犯罪の正当化に利用し、それを叩く共和党とロシア中国側新勢力が勝利すれば、LGBTは小児性犯罪者と同じ犯罪者と見なされ弾圧の対象とされるという構図なのだ。どちらにしても一時的に担ぎ上げて落とすいつものやり方、2つの勢力を立てて争わせ、両方に投資して利益を回収するいつもの金儲けに過ぎないのである。日本のデジタル化状況を観察すれば、どちら側の勢力に飲み込まれるにしても超管理社会に向かうだろうということが目に見えている。
小児性犯罪の加害者の多くは異性愛者の(簡単に言うと、女性を好きな身体的にも元からの)男であり、被害者のほとんどは少女なのである。今回の法案はLGBT当事者にとっても、現状改善にはまるで役に立っておらず、いたずらに騒ぎを大きくしただけのようだ。いい加減LGBTの問題と小児性犯罪とを、個々の性犯罪と組織的な人身売買と関係が根深い小児性犯罪とを、先ず分けて考えないと、日本人は貧しい弱者同士が、互いを恐れ憎み合ったまま連帯できぬうちに、みな利用され、いいように騙されて、殺されてしまうのではないか。
また「(性の)フライングは、姦淫やポルノグラフィや煽情的な下着やストリップショーやドラッグカルチャーやトランスジェンダーにあらわれる。」というのは、著者の個人的な見方だ。ポルノグラフィやドラッグカルチャーという、個々人の嗜好によって選択可能なものと、トランスジェンダーという生物・社会学的な分類であり、当事者本人の意思ではどうにもできない先天的な性質とを一緒くたにするのは、偏った意見であり、トランスジェンダーに対する誤認を招く理論だと思う。 ぼくは昔、プロのマンガ家を目指し上京したとき、飲食店のバイトをしながらマンガを描いていると、どうしても描く時間が取れなかったために、店を辞めて派遣の日雇いバイトに登録したことがある。 メールに従って駅に行き、マイクロバスに何人もギュウギュウに詰め込まれ、郊外の工場に運ばれ、昼の休憩以外は立ったままあるいは座ったまま、同じ単純作業を延々と繰り返す。特に厳しい場所では、冬には寒風や雪が舞い込むこともあった。定職のパートたちが指示を出す時の怒声は、ずっと聞いているだけで気持ちが沈み心が荒んだ。派遣会社の人間に管理されながら、誰とも話すこともなく過ごすうち、自分がもはや人間ではなく、本当にただの家畜といったものになったのだという気がした。
そんな日々の中で、ぼくは一人のトランスジェンダーの男性と知り合った。ごくごく普通の明るい青年なので、初めはそういう人だとは気づかなかった。女の子の友達(もしくは彼女)らしき人と一緒に働いていて、休憩時間や迎えのバスを待つ時間に、ぼくは彼と少し口をきいた。その程度のことだが、なぜこのバイトをしているのか訊かれて、ぼくが上京のいきさつから今までの経緯などを話すと、彼は「自分はトランスジェンダーだから家から出た」というようなことを話してくれた。そしてこう言ったのだ。「親にはホント、生まれて来ちゃってスミマセンって感じっすよ」と。ぼくはその一言が今も忘れられないでいる。 彼の親は我が子を、世間の言う変態だとか犯罪者だとか精神病というようなイメージでしか見ることが出来なかったのではないかと思う。ぼくはLGBTの問題に接する度に、名を知ることも無かった彼の言葉を思い出し、子どもが、自分がただこの世に、大多数の人とは異なる性質や障害を持って生まれたというだけで、生まれたことを「親に申し訳ない」と思わなくてはならない社会とは、一体どんな社会なのだと問いたくなるのである。 帰る場所なくしてあふれ落つ夕焼け