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数学する身体

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 

千夜千冊1831夜、森田真生さんの『数学する身体』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1831.html  千夜千冊は数学シリーズが続く予定で、算数の計算ができないぼくは、自分がちゃんとブログを書いて行けるか少々心配しているが、今夜のお話も興味深く読むことが出来た。オツ千(おっかけ千夜千冊)は最近は、千夜千冊エディション『編集力』を追っかけているけれど、二人のお話の中にも方法が散りばめられているので、同時に全部を丸飲みしていくと、数学と意識と編集というものが、どんな風につながっているのか、ぼくにも少しは見えてくるのかもしれない。  森田真生さんの『数学する身体』は、イシス編集学校・破コースの知文術の課題本になっており(今期はまだどうなるか分からないが)、アニまるズが選んで気になっていたのでぼくも読んでみたことがある。  千夜にもあるように、この本は算数というものが、どのようにできてきたのかを紹介しており、見所のひとつは数学史に欠かせない「超数学と不完全性定理のドラマ」に、アラン・チューリングの万能計算機モデルであるチューリング・マシンが登場する展開なのだが、後半は打って変わって、岡潔の「情緒の数学」を主な話題としている。  数学的な内容の細かなトリビアについては記憶が定かでないものの、ぼくも著者の言葉が醸し出す印象を、やわらかな岩清水のように心地よく感じた。おかげでぼくの数学への恐怖心や凝り固まったイメージも、以前に比べたらだいぶほぐされたのではないかなと思う。  森田さんは、スマートニュースで起業した鈴木健氏からカントールの対角線法を教えられ、文系から数学科に転じ、さまざまな哲人の思想に触れていくにつれ、数学に魅せられ独立研究者を目指すようになった。とくにアンディ・クラークの思想や、荒川修作の養老天命反転地や三鷹天命反転住宅、甲野善紀さんの身体的知性やフォン・ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)の見方に影響を受けたそうだ。  今夜のお話には、ぼくも少し知っている人が何人か登場した。

 ぼくはスポーツも苦手なので、剣道にも全く詳しく無くて、剣術については少し本で齧ったくらいなのだが、甲野善紀さんの本は図書館で借りて読んだこともあって、お写真をトレースしたりしていたので、マンガを描く時は無意識のうちに参考にさせていただいている部分があるのではないかと思う。また今回、父を自宅で介護することになった際、寝返りが打てなくなった父の身体を起こす時に、ふと甲野さんの介護の技を思い出して、応用的にやってみる機会があった。本を読んだのはかなり昔だが、これなら力の無いぼくにもできそうだと思って試しにしてみたので憶えていたのだろう。  セイゴオ先生が、武道家やピアニストは、情報操作の指令を脳に頼るのではなく、エフェランスな(遠心的な)膝や手首や指先に托していることが少なくないと言っていたように、甲野さんも膝の動きを大事にされている様子だった。そう言われてみると、ぼくもマンガの画を描く時というのは、アタマで「こう描こう」と考えながら描いているわけではない。手首や指先が紙と対話している。その対話が線となり、さまざまな形をとって、画になっていく。  もう一人、安田登さんの千夜は、時折読むとそのつどズンと心の奥が震える思いがする。ぼくは安田さんには九州瓢箪座のワークショップに参加した時一度お目にかかり、祝詞か何かを詠まれた声に衝撃を受けた。そのときは、能のことなど今よりもっと何も知らなかったので、ただただ「なんだこれ人間の声じゃないぞ」という気がしたものである。  著者の森田さんはアンディ・クラークの「認知は身体と世界に漏れ出す」という主張から、数学も「脳」や「心」に閉じ込められていたものが体に滲み出していったのではないかと確信するようになった。加えて数学も荒川修作のように「私と」「世界」を反転させる試みに向かっていったのではないかと思うようになったそうだ。  ぼくは今夜のお話は、やはり岡潔のこと、そして芭蕉とフレーゲ、アントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」の三連打がおもしろかった。  岡潔が「上空移行の原理」の論文が大学に受理されたのと同時期に、友人が病没したという話で、今回の『侍JOTO』の最後の場面が思い浮かんだ。ぼくはかなりずっと前、何年も前から、この「なつといふ女(ひと)」を描きたかったのだ。大まかな物語の流れはすでに頭の中にあったが、なつの言葉としての想いというのは、ネームを作り出してから、この話を描く間ずっと口ずさんできた歌とともに、台詞や生き方として滲み出て、織り上がっていった。

 マンガの画面をつくっていく時の構図というのは、だいたい同じ高さ、煽り(下から見上げる視点)、俯瞰(上から見る視点)に分かれる。今話の最後の場面は、それが岡潔が「上空移行の原理」を作った時にイメージした景色と同じかどうかは分からないが、たしかにただの視点の高さの問題というより、存在域の次元を上げて見ているような感覚だったのかもしれない。  嬉しいことに、『春宵十話』で岡潔の言っている「農」は、人間の目先の利益のために、自然をコントロールしようとするスマート農業放射線照射(遺伝子組み換えやゲノム編集)などのアグリビジネスとは別の方向であり、ぼくの知人や友人が取り組んでいる、自然農法や無農薬無化学肥料を徹底した有機・循環型農業に一番近そうである。  今夜のお話で、芭蕉の「虚に入って実を行ふべし」の編集工学的な意味がようやく分かりかけてきたように思う。情報の空席をあけることと、未知の領域に入っていくこと、描けそうにないことを描くことはきっと似ているのだ。  そして「数式になる以前の数学的連続性」を人間の意識にたとえるとどうなるだろう。「わたしになる前のわたしの連続性」。道元の言った「朕兆未萌の自己」を直感するような情緒こそが、ソマティック・マーカーが察知する”気配”や”目当て”とつながっているのか。  もうすぐ52守、51破と、編集学校の秋講座が始まる。全身全霊編集のМさんや、ぼくの兄弟教室の学衆さんだった大乗的才女Tさんの教室運営も楽しみだが、アニまるズの教室は一体どんな冒険へと繰り出すのだろうか。

 畑には大根の芽が出て、次回のネームも出来た。むろんまだこれからマルチングをしたり、ペンを入れたりはするが、意識としては「あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子のほうにあるのだ。」  蟷螂も枯れ朝顔の実を見つめ

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