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数学を哲学する

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada



千夜千冊1836夜、スチュワート・シャピロさんの『数学を哲学する』を読んで思い浮かんだことを書いています。



 子供のころからぼくは文系で、数学(算数の科目)と同じくらい、虫が苦手だった。特に芋虫毛虫蓑虫といった、ぶにゅぶにゅした連中は今でも気持ち悪くて、あまりお目にかかりたいとは思わない。しかし今のぼくは、蝶々や飛蝗や蜻蛉などの虫を見つけると、なんだか朗らかな気分になってくる。家の中に彼らが迷い込んだときは、むやみに殺さず虫取り網などで捕獲し、外に逃がす努力をしている。いつからか虫は季節を感じさせてくれるものとなり、生きていることの切なさや尊さを教えてくれる、小さな友のような存在となったのである。


 今夜のテーマは、数学と哲学が花と虫のように共存するにはどうしたらいいかだ。まずは数学と哲学が似たような立場にあるのに、なぜ共存できないのかという問題の表明、数学という学問の特徴、数学が哲学と共存するにはどういった対策が必要なのかといったことが述べられている。

 後半は「カント的直観」を軸に、数学がなぜ懺悔をしない学問になっているのか、数学の哲学的な問題点を突いている。数学はカントの方法を盾に、知識をアプリオリ(先天的に措定できるもの)とアポステリオリ(経験的にわかる)分けて、アプリオリな知識を公理化し、ひたすら「証明」の錬磨してきた。そのため、ぼくのような人間からすると、数学は一見「何が言いたいのか、世界に対して何がしたいのかよくわからない学問」になっている。


 しかしぼくは一連の千夜千冊数学シリーズによって、数学は世界の色々な謎、この世界がどんな構造になっているかを、数学という方法で解き明かしたいのかな(?)というふうに解釈するに至った。そしてそうした数学的なものの見方は、他のものごとを見るときにも転用できることが分かってきたのである。


 「数学と哲学が仲良くするにはどうしたらいいのか」を、もっとざっくり言うと、理系と文系が仲良くするにはどうしたらいいのかということだろうか。

 ズレてしまうかもしれないが、最近ぼくが考えているのは、A:わりと初期段階から新型コロナウィルス騒ぎを疑い、このパンデミックが詐欺だと気づきワクチンに反対してきた人々と、B:グローバリストや政府やマスコミの言説によって新型コロナを脅威と見なし、ワクチン接種や感染症対策を推進してしまった人、途中までは従ってきたものの「ひょっとしたら自分たちは騙されていたのかもしれない」と気づき始めた人々が、どのように折り合いをつけたらいいだろうかということだ。


 Aの人々は、Bの人々のうちの大多数が、コロナ禍を「終わったこと・無かったこと」にしようとしていることに強い憤りを感じているのではないかと思う。家族や友人がワクチンによって病気や障害になったり殺されているのに、政府やマスコミは自分たちの行った大量虐殺を無かったことにしようとしている。Bの人々がワクチンやマスクの推奨に意図せず加担してしまったことを気まずく感じ、黙ってしまっていると、Aの人々からすると、ワクチンの有害性を知りながら推奨してきた連中と変わらない(見分けがつかない)ように、どうしても見えてしまう面がある。

 ぼくの知り合いの多くも、きっと揺れながら、周囲の状況に合わせてやってきたのだろうし、立場上言えなかったのだろうと思うから、ぼく自身は騙されてしまったというか、気づくのが遅れた人々にまで責任を求めようとは思わない。しかし被害を受けた人々を無視するわけにはいかない。


 立場の違う人々がいがみ合ったり、協力できずに何も動かなければ、政府とマスコミは改憲→なんらかの有事詐欺→緊急事態宣言→ワクチン・感染症対策の強制+貯金封鎖を、メディアの操作によって押し切ってくるだろう。そして日本国民の壊滅的な減少+日本の国土と資源の完全な売却→日本の滅亡となるシナリオがあるらしい。そうならないようにするには、まず多くの人が、インフルエンザでも何でも(同じ商法なので)絶対にワクチンを打たないこと、マスコミに流されたり同調圧力に屈しないことが大切だ。


 今ぼくも、自分の社会実装のために何ができるだろうと模索しているところで、「おっかけ千夜千冊」に加え「ほんのれんラジオ」を聞いたり、スマートニュースの鈴木健さんがゲストとしてやってくるISIS FESTA スペシャル『情報の歴史21』を読む 第九弾に参加してみようと思っている。ひとまず鈴木さんの本を読んだことがないので、検索で当たった鈴木さんと東浩之さんの対談のダイジェストを観た。あまり鈴木さんの話している場面が無かったので、鈴木さんの考えを知るために、これから本を読んでみようというころだ。個人的には東さんの話を聞いて、何故だか千夜千冊、プラトンの『国家』にある「最善のものが腐敗すれば、それは最悪のものになる」というソクラテスの教えを思い出した。きっとぼくが、というよりぼくたちがSDGsを脱構築するにしても、その過程で出来たものを表明したからと言って、T(ターゲット)を固着させてしまわないために、いつでも何度でも訂正可能にする力が必要で、そのためにこそ編集学校の学びが有用になってくるはずだ。まず、どんどん自由にアイデアを出す人があらわれてきてくれたのは素朴に嬉しい。


 「ほんのれんラジオ」は本の使い方が上手い。本を通じたコミュニケーションとして画期的な構成になっているなと感じた。先日の会合でNさんが、ぼくがマンガを描いていることを話されて、驚いてしまったが、ラジオの一回目で、『侍JOTO』を読んでくださっている(?)のかなと思われる部分があり、そういうことだったのかと分かった。ぼくは昔から「自分がマンガを描いている」と思いすぎると、描いていること自体が恥ずかしくなってくるところがあって、自分のマンガについて直接人と話すことも、つい照れてしまう。


 ラジオの内容についても、とても勉強になって助かる。時々扱う本によって異論を述べたくなる部分もあったりのは「ほんのれんラジオ」自体が云々というのではなく、ぼくと本の著者たちとの「社会の見方」の違いだろうと思う。


 異論があるのは『ボディシェアリング』とか『ノヴァセン 〈超知能〉が地球を更新する』などについてである。この本の著者らの哲学は、ぼくからするとかなり楽観的というか、技術信仰的で、有機体である生命、とくに小さく弱いフラジャイルな生命に対する配慮が無いように感じる。ラブロックの地球を一つの生命体と見なすガイア仮説自体は、ぼくも素晴らしい発想だと思うのだが、人間がちょっとぐらい傷つけたって地球は大丈夫だというのは、まるでDV男が「君は強いから大丈夫」と言いながら、女性を虐待しているみたいである。


 ボディシェアリングのような人間拡張技術には5G→6Gが必要になってくると言われているが、現在の5Gでさえ、植物(農業つまりは食料)にとって大事な役割を果たしているミツバチが減るなど、生態系が狂わされているし、特に子供の脳をはじめとして、人間にも深刻な悪影響が及んでいる。これが6Gになれば、より多くの生き物が死滅してしまうだろう。政府がこうした有害な電磁波をインフラ化したいのは、癌や不妊によって人口を削減すれは、その分多くの資源が技術開発に回せるからだろう。


 〈超知能〉が地球を更新するという発想も、ユヴァル・ノア・ハラリの、一握りの超人(ホモ・デウス)が他大多数の人びと(無用者階級)支配する世界のイメージを、地球(ガイア)のためだとか運命だとか、必然のよりよい未来のように言いかえているだけではなかろうか。著者らはまったく電磁波のことを知らないのか、都合が悪い情報は無視しているのか、偶然かどうかは知らないが、彼らの思想はグローバリストの超管理社会化のシナリオに沿っている。

 ぼくからすると、機械に脳をつないで何百年も生きたいだとか、SFのように一度の人生で何人分もの経験をしたいとか、贅沢や利便性をもっともっとと拡大しようとする”成長戦略”こそが、地球規模の資源の争奪や戦乱や搾取、環境破壊と汚染を拡大し、危機を作り出している。


 5Gでなくてもネットがつながる程度のインフラがあれば、(直接会いに行かなくていい場合も増えるので)人々の移動によるエネルギー資源の消費を抑えることはできる。事故や病気で障害を負った人を手助けする技術には意義があるとは思うが、他者の気持ちや動物の気持ちを想像するのに、電気刺激が必要だろうか。

 そうした玩具を使って遊んでいると、その玩具が無くては遊べない人間になってしまうのではなかろうか。想像力さえあれば、ぼくらはいつだって鳥にも虫にもなれるし、友達にもなれるのに。


 寒雀どこに身を寄す空荒れて




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