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千夜千冊1835夜、マイケル・J・ブラッドリーさんの『数学を拡げた先駆者たち 無限、集合、カオス理論の誕生』を読んで思い浮かんだことを書いています。
https://1000ya.isis.ne.jp/1835.html
ぼくはあまり何かのものにハマって、コレクションしたことが無い。姉や同世代の友達はそれぞれ、少年マンガのコミックやヴィジュアル系バンドやポケモンなどなど、流行りものにハマったり雑誌を切り抜いたりしていたものだが、ぼくはどうも途中で飽きてしまうのだ。面白いと思ったマンガでさえ、10巻以上になると「ぼくはもういい」という感じになる(ぼくにとってはそれより自分で描くほうが楽しかったりする)。
唯一ハマったといえば映画だろうか。親父がレンタルビデオをよく借りてきたので、影響されて色々観た。とはいってもハリウッド映画が多くて、今思うと玉石混交だったのだろう。ぼくはもうハリウッド映画は観なくていいと思っている。
ただ、自分が描く予定のマンガに関係あるような気がすると、何でも集める気力が湧いてくるから不思議なものだ。以前は西部劇とSFを描こうと思っていたので、そのジャンルの映画パンフレットや、資料となりそうな科学系の新聞や雑誌の切り抜きを取っておいてある。
加えてもっと小さなもので、凝っているといえば画材だろうか。特に墨の匂いと乾き具合、ペンやペン先などは描き心地に関わってくるので凝ってしまう(実は最近メインで使うペンが、Gペンからクロームのカブラペンに移りつつある)。
歴史はまあまあ好きだけど「戦国武将」とか「科学者」といったくくりで人物を追いかけたことはない。しかし今夜の数学者列伝は、映画や小説の群像劇のように、一人づつのキャラクターが際立っていておもしろかった。
同じ数学者でも、恵まれた環境に育ち豊かな教育を受けた人だけが研究成果を残したというわけではなく、赤貧を洗う生活を余儀なくされたり、若くして亡くなった人もいることを初めて知った。今夜はニールス・ヘンリク・アーベルのことが印象に残った。ぼくはやはり、生きてる間あまり報われなかった人に共感する。
数学者に女の人が多いのにも驚いた。ナイチンゲールがそんなに数学的思考の持ち主だったとは。彼女の偉業はたしかに素晴らしい成果だし、おかげで救命医療や看護が発達したことは言うまでもない。ただ気を付けておきたいのは、彼女によって発達した近代医学は、その原点が野戦病院での外科医療を中心とした戦場医学だったということだ。 ぼくだって、大怪我をすれば病院のお世話になることはあるし、近代医学の機器や検査法を用いることもあるだろうけど、ぼくは、自分の不調を何でもかんでも医薬品でなんとかしようとは思わない。特に慢性疾患や感染症においては、森下敬一さんや安保徹さんや母里恵子さんや中村哲さんの言葉この方々は殺されたのではないかと言われている。森下さんは分からないが、免疫力の専門家である安保さんと、予防接種やワクチンの被害者救済に取り組んできた母里さんが、コロナがはじまる2019年の前にともに急性大動脈解離で亡くなっているのは、どう考えても不自然だ。ぼくは中村哲医師についても、イスラム原理主義者のテログループを装ったグローバリストの傭兵に殺されたのだと思っている。WHOや国際的に有名なNPO・NGOの内情に詳しい中村哲さんが生きていたら、コロナの欺瞞とワクチンの危険性を真っ先に見抜いただろうから。 エネルギーでも何でも「単なる利権の話じゃない」という見方もあるが、一方で「利益と権利の絡まないような単純な話は無い」とも言えるようにも思える。なぜ人口が減っているのに節電という選択肢がないのか。例えばぼくには、年がら年中日本中、どこもかしこも同じようにイルミネーションでライトアップなけらばならないのかも不思議だし、二酸化炭素削減と言いながら山林の木を伐りまくるのもおかしいと感じる。 こうしたことが気になるのは、ぼくは「杜人列伝」にハマっているということなのかもしれない。矢野智徳さんに関係する土中環境の本に続いて、最近C・W・ニコルさんの『アファンの森の物語』を読んだことで、今の日本は1980年代に長野県でしていたことと同じ過ちを全国各地で繰り返していることがわかった。当時はどんぐりの木を伐採し、杉ばかりを植えたために山が荒廃して土砂崩れが起きたり、熊たちが里に下りて畑を荒らすようになったが、今度はソーラーパネルや巨大風力発電を建てるために、大規模な伐採が行われ、土砂崩れで人が死んだり、住処を追われた熊たちが、農村の柿を食べに現れるようになったという。ニュースでは、熊が柿を食べるなら柿の木を伐ればいいという話になっていて、なんて短絡的なんだと思った(柿はい医者いらずというほど滋養があり、葉も健康にいいお茶になるのに)。そうやって追い詰めていけば、熊はその次は畑の農作物を食べるしかなくなるではないか。追い詰めておきながら殺すのか。一体これのどこが生物多様性なのか、どこが持続可能な開発なのだろうかと思う。 先日はイシス編集学校で、第一回目の「編集工学・社会実装プロジェクト」の会合が開かれた。日曜にも関わらず学衆・師範代~編集工学研究所の方々までが一堂に集まって、日本イシス化/日本編集化計画について話し合ったのだ。ぼくはこの数日のところ、今のSDGsや脱炭素化再エネ事業は、単なる廃人ゾンビ化洗脳や共産管理社会ディストピア化の推進、外資による土地と資源の買い叩きにしかなっていないので、そうではないぼくらなりの目標を、考えてしまえばいいのではないかと思っていた。つまりSDGsをパロディ化するのもそれはそれでニヒルには笑えるけど、本気でディストピアとは全く別の方向を目指し、日本人の生命観・歴史観に心地いいもの、イシス編集学校の掲げる「生命に学ぶ」「歴史を展く」「文化と遊ぶ」を地にしたものに再編集したらよいのではないかと考えていたのである。 最近日々是上等ブログと、周囲の色々なことがつながってきている気配を感じてはいたのだが、その内容を林頭が試しに考えてくださったのか、会議の冒頭で発表してくれたので、「おおっ」と思った。例えば「編集術を小・中・高の必須教科に」なんて(正確にそう言っていたかはうろおぼえだけど)、今すぐしたほうがいいと思う。 編集工学研究所のこれまでの取り組み「松丸本舗」や「ちえなみき」、ブックウェアという方法も、安藤社長「企業もどうしたらいいか迷っている」というお話、田中所長の「ボタンのかけちがい」を何とかしたらいいというお話も参考になった。Мさんのアイデアもおもしろそうだし、現時点で見えてきた問題点も、何か参加してみたいようなひらめきの種も、ひとまず全部テーブルに乗っかって、盛りだくさんの会合になった。 グループのディスカッションでは、ぼくは農家をしている友達のお店のことについて相談したり、上記のC・W・ニコルさんの本を紹介した(なんか熱がはいってしまった)。「ほんのれん」編集部のYさんが、何人かの話を受けて、テーマや課題別に人が集う「クラブ活動」みたいなものがあったらいいのではないかと言っていた。ぼくはクラブ活動って編集学校に「ないもの」だし、実装へ向けたホップステップジャンプのホップ、「トライ&エラー」のステージになるんじゃないかと感じた。クラブ活動→部活→実装だ。 現実のぼくはただバイトをしながらマンガを描いているだけの人間で、一体イシスの中で具体的に何をどうしたらいいか、まだ全然思い浮かばないのだが、もし何でも自由にできるなら、ぼくの地元にも「子供編集学校」があったらいいのになとも思う。ぼくだったら友達の畑や、山や森で教室を開き、「編集×食」「編集×環境」についてみんなと一緒に学びあいたい。 先日の14離の企画会議では、セイゴオ先生と津田一郎さんの対談本『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』を課題図書としてみんなで読んだ後、Оさんがトール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン』の解説をしてくれた。Оさんは14離の集まりで、いつも自由で刺激的なアイデアを出してくれる。それが(今回の17の目標再編とか)ぼくの思い付きのヒントになったりもする。
まるでぼくの前にも突然に様々な「可能性」と「不可能性」が手をつないで姿をあらわしたかのようだ。先生が仰るように、こうしたときは、自分が見ている集合と自分を含む集合の両方を語るには、新たな世界観をもたざるをえないということなのだろう。しかし何か今、不思議とプレッシャーとか焦りというよりは、カオス状態とも言える未知を前に、ワクワクうずうずしている。イシス編集学校だって相当一人一人のエディティングキャラクターが際立っている。これからぼくたちは、編集を拡げる先駆者たちになるのだ。
わかることわからないこと冬銀河