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数学的思考

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1814夜、デービッド・トールさんの『数学的思考 人間の心と学び』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1814.html  毎年セイゴオ先生に届く九州瓢箪座のお年賀は、今年は山笠だった。夏の山笠は燃えるものだが、こちらは萌える新春山笠だ。

 愛らしい山笠が乗り込んだ本楼で、今年最初の千夜千冊のために、セイゴオ先生と、ぼくが花伝所時代に、わかくさ道場で指導をしてくださったアサト師範と、当期師範代を務める異次元イーディさんというバリバリ数学三人衆による数学的編集談議が開かれた。

 数学が苦手なぼくは尻込みしてしまったが、「数学的思考」ではあっても、今夜のサブタイトルには「人間の心と学び」とあり、「編集」が結び付いていたので、途中(?_?)(?_?)(?_?)(?_?)(?_?)となりながらも、なんとか最後までついていくことができた。  まず、先生によると、ぼくでも名前は知っている有名な数学者ポアンカレは「数学とは、異なるものを同じものとみなす技術である」と言ったらしい。この一言でぼくは「え?なんだ。これって編集じゃん。アナロジカル・シンキングじゃん」と、ちょっと読める気がしてきた。  それに数学界には、ぼくら14離のZoom番長でもあるアフロ機長のように、かぶりものをしている数学Youtuberもいるとは。やたらコーフンするイーディさんといい、ぼくが常々、数学系にはお茶目な探求者が多いような気がしていたは気のせいでは無かったようである。    それにしてもアサト師範の「圏論×編集工学の研究」は、数学チンプンカンプンのぼくにとっても懇切丁寧な解説になっている。アサト師範は難しいことを相手の性質に合わせてそのつど言い換えながら、一人ひとりの腑に落ちるように説明されるのだ。その言葉や考え方の豊かさ、間合いの取り方、差し出す手際が絶妙な指南に接する機会がある度、ぼくは心の中で感嘆のため息が出る。  ともかく今宵はこうした魅力的なメンバーの手引きで、認知のしくみやその学習心理過程が、数学/編集工学的に見えて来る本書が紹介されている。  著者である”ノッポ”ことトール先生は、プロセスとコンセプトをまぜた「プロセプト」(procept)理論や、「数学三世界」理論などを提唱した。  ぼくという人間は、数学=計算→難しい→超ゆっくりなる・もしくはできない…という呪いに掛かっているのだが、セイゴオ先生曰く、数学的であるとは、数学の記号表現のしくみを借りることによって、認識や連想の新たな結び付きが変容しうることを確認する知識構造にどんどん分け入るということなのだそうだ。  これをぼくなりにもう少し解釈しやすくしてみると、特に「しくみを借りることによって、認識や連想の新たな結び付きが変容しうる」ことが編集のアルスにあたる。「知識構造に分け入る」とは、何かを理解しようとする、つまりは学びのことではないか。  人は何かを学ぼうとしているとき、数学を意識していなくても、数学的なことが脳の情報圧縮の過程で起こっているということなのだろうか。そんな風に考えると、なんだか今まで遊んだことのない子と自分の共通点を見つけて、急に打ち解けたような不思議な気持ちになってくる。  正月は俳句を考えながらの過ごした。ぼくたち14離の面々は新年の句会をすることになって、今夜のお話にも紹介されている小坂別当方師に俳句を送り、講評をいただくことになっていたのである。  元日ぼくは家族に頼まれて、初日の出の写真を撮るため早起きして散歩に出かけた。帰るとお腹が空いて、おせちや雑煮の前にフツーの朝ごはんを食べてまた寝してしまった。  卵かけごはんにそそぐ初日の出  このとき実際食べたのは、毎年親父が正月に捌く鰤(ブリ)の刺身の残りを胡麻醤油であえたもののお茶漬けだったのだが、初日の出と卵黄が注ぎ注がれるイメージを重ねてまず一句できた。次の句は初詣に行き参拝のための長蛇の列に並ぶ合間に、歳時記を読みながら考えた。

 参道に小さき春着の犬二匹

 ぼくの前に丁度どこかのご家族が白い2匹雄雌の小型犬に犬用の着物と袴を着せて並んでいるのが見えた。その日はぼくらは二社参りをして、別の神社でも服を着た犬を見たので、最初は「参道はランウェイ子犬の春着かな」と、イメージを膨らませていた。けれど芭蕉や虚子の千夜千冊を読んだせいか、ランウェイというとパリコレの映像が浮かんで春着が霞むなと思ったり、子犬じゃなくて小型犬だったよなぁなどと思ううちに「引き算」をしたり、「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群れ」を突き合わせるといったことが、頭の中で起こっていたのかもしれない。

 こうして俳句ができるまでの過程を観察してみると、「プロセプト」や「数学三世界」というものが、シンボルとアレゴリーを動かしながら情報の圧縮をしていくということが、なんとなく実感できる気がする。

 ぼくは4つの句を送って、そのうち春着の犬の句が、富士山に見立てた小坂方師の数寄のグルーピングで”山頂”に辿り着き、多読ジムでも活躍中のトンネリアン師範代と共にご本をいただいた。ズバリぼくの好きなものが詰まった、うっとりしっぱなしのピカピカなご本については、今度の会議で14離仲間に先に紹介する予定である。他に作った二句は凝った割にふるわず残念だったけれど、頷ける解説に俳句の難しさとおもしろさをあらためて知ることが出来た。


 みんなでそれぞれ俳号を考えたのに、小坂方師には、ぼくの正体だけ(?)作風からバレバレだったらしい(汗)。俳号について種明かしすると、ぼくはセイゴオ先生が「玄月」という俳号にされたとき、周囲の方々が「ぼくも、わたしも」と、先生に俳号をつけてほしいと頼んだというエピソードから「ぼくも」という言葉の「読み」をいただいた。  「ぼくも」の漢字は、自分がインクではなく墨でマンガを描いていること、諸子百家の墨家が死ぬほどカッコイイことから「墨」を、草莽の士とか、わかくさ道場から「茂」を引っ張って来た。こうした俳号などのネーミングにおいても、編集はもちろん数学的編集なる、ぼくにとっては神秘のアルス・コンビナトリアが潜んでいるのか…。  本当はぼくも今年紹介してみたい人物がいるし、巨大ソーラーパネルと共に災害の原因となるだろう巨大風力発電の問題や、電磁波(4・5、5、6G)の問題コロナとエイズの背後には同じ利権システムがあること、死ぬロットEX0182を厚労省は知ってること、ワクチン後遺症の救済措置やズボンが後ろ前の安倍茶番などなどなど…色々と思い浮かぶこともあるのだが、1つのブログで全てをつなげて語ろうとするのは無理があるのかもしれない。しかし今年はまだ始まったばかりだ。

 追記)母がいくら説得しても聞かない頑固な親父がガリガリに痩せてしまい、殺されそうだったので、この数日は下記のようになるよう念じていた。叶った。  抗がん剤止めて鮟鱇鍋囲む 墨茂

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