イシス編集学校の〔離〕の受講期間が終了し、先週半ばからマンガ『侍JOTO』の原稿を再び描き始めました。〔離〕の”火中”も、描けたら描こうと思っていたのですが、やっぱり無理でした…!〔離〕最後の課題を提出後、寝違いを起こしたり(笑)、一緒に学ぶみなさまや火元組(指導陣)と離ればなれになるのがと寂しくて、ちょっと気が抜けたようになってしましたが、今のところ何とか大丈夫です。
あいかわらずマスコミはコロナコロナで、どんどんおかしなことになっていますが、日本および世界の危機的状況を、知らせようとしてる人も増えてきているみたいなので、ぼくも「知行合一」と「事上錬磨」をモクヒョーに、自分にできることを模索しつつ活動していこうと思います。
取り組みの一つとして、この「千夜千冊を読んで思い浮かんだことを書く」ことを、「編集稽古」を兼ねて続けて行く予定です。本当は千夜千冊に合わせて俳句を作ろうと思っていたんですが、どうやらぼくは「作ろう」と意識しすぎると無理なようで(苦笑)思いついたらやってみようというくらいにしておいたほうが丁度いいようです。
「千夜千冊」は、編集工学研究所の松岡正剛先生が1冊の本を選び、本と共にその背景やご自身の考え、身の回りのことなどを織り交ぜながら編集し伝えておられます。ぼくはその「千夜千冊」を読んで思ったことや、自分の身の回りのことをごちゃまぜにして、このブログを書いています。今度からモードを「です・ます調」から「である調」を基本にしていこうかなと考えています(時々変わるかもしれませんが)。要約しつつ、思ったことを自由にはさんでいます。是非、千夜千冊本文や著作そのものをあたってみてください。
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千夜千冊1768夜『文化の「発見」』を読んで思い浮かんだことを書いています。
著者・吉田憲司氏は現在いま大阪の国立民族学博物館の館長をしている。本書の出版時は研究員としてアフリカ文化や仮面文化に携わっていた。本を読んだ当時、セイゴオ先生は「科学と文化のあいだ」について考えていた。18世紀末から19世紀前半にかけての「科学の確立」と「世界各地の文化の多様性を認識する」ための「博物学づくり」の時期は“独特の情報編集期”があったのに、なぜ近代社会は「科学」と「文化」を分断したのだろうかという素朴な疑問がはさまれている。
本書には「ウンダーカマー」に代表される珍品収集感覚が博物学をへて博物館展示になっていく経緯と「プリミティブ」に関する人種問題をかかえた議論について語られている。ウンダーカマーとは、驚異の部屋という意味で、貴族が自分の屋敷や城につくった珍品陳列室(cabinets of curiosities)のことだ。初期の珍品には金銀細工、宝飾品、羅針盤、四分儀、時計、ダチョウの卵、珊瑚、一角獣の角、磁器の茶碗などがあり、なかには「一つ目巨人の骨」「ソロモンの神殿の木釘」など胡散臭いものがまざっていた。やがてそれらが「美術的博物展示」されることになっていく。「美術」なのか「博物」なのかはっきりしないところがミソなのだ。
コレクションが同じ種類のものを蒐(あつ)めるのに対して、ウンダーカマーは「異類」を蒐めるのに特徴がある。この「生きがい」と「悦び」を、他人にとやかく言われる筋合いはない。ここでは単に好きというだけでなく、「めずらしさ」が新たなフェチを獲得する。ちょっとお勉強っぽい言い方をすれば「異文化」ということだ。
かつて世界航海に出たヨーロッパ人は、自分たちが出会った「めずらしさ」を「自然の驚異」と「異文化」に分けた。現在世界遺産が「自然遺産」と「文化遺産」に分かれてるのにも、こうしたヨーロッパ的な見方が反映されているのだろうか。ともかくこのときの「異文化」に「プリミティブ」(primitive)という見方が入れられていた。プリミティブとは未知の人種文化や民俗文化のことだ。こうして各地の博物館に「自文化」と「異文化」が切り取られて展示されるようになっていったのだが、時代を経てピカソやゴーギャンの絵がアフリカ南太平洋や南米の古い仮面などと似ていることが発見され、展示されるようになると「プリミティブ」という言葉は「原始的、素朴、幼稚、稚拙、未発達、未開、初歩的」という意味が入っているから差別ではないか、「西洋の美術的な価値基準を押し付けているだけだ」と、企画展示自体が批判されることとなった。
セイゴオ先生はこの議論には「フェティシュ」(呪物崇拝)についての視点と、「アブダクション」に関する視点が欠落していると指摘した。ピカソとアフリカの仮面をMoMAの「プリミティヴィズム展」で並べたウィリアム・ルービンは、「プリミティブアート」と「モダンアート」の類縁性をアブダクション(仮説的領域)として発見したのだ。
1984年の話だから今さら言っても仕方ないけど、ぼくは「プリミティヴィズム展」という名前がよくなかったのではないかという気がした。84年と言えばセイゴオ先生の雑誌『遊』が終わって間もない頃である。ルービンが「アブダクション」によって類縁性を見つけたまではおもしろいかったのだから、対概念そのものではなく『遊』の「相似率」のように「文化の相似を発見」したら良かったのではないかと思う。その点、荒俣さんが角川武蔵野ミュージアムでやっている秘宝館のタンポポやサンゴは見事な「美術的博物展示」になっていて美しく、めずらしく、実物を見てみたい。
また、この「文化の発見」問題には、コレクションするということと、ぼくたちの内なるプリミティブとは何かということが掘り下げられていないままになっている。
ぼくたちが何かを蒐めるとき、そこには「負の袋」のようなものが口を開けているらしい。先生はそれを「負の吹き出し」と見た。蒐集においては、そこに「もの」が次々に入ってくる。
子どもが成長していく過程で色々な「もの」に惹かれたり、他者の蒐集を見るようになるにつれ、自分の「間隙のネットワーク」のようなものがざわざわと動きはじめ、その間隙を触知しようとすることが、長じて表現活動につながっていくというのだ。
セイゴオ先生のお話からするとコスプレもグルメもコレクションに入ることになる。ぼくは何かを買い集めコレクションにしたことはないけれど、経験も蒐集なのだとすると、ぼくの場合、自分描くマンガの中に人(キャラクター)をあつめているのかもしれない。イシス編集学校的に言うなれば「たくさんの私」をもっと「たくさん」にしようとしていることになる。ホームページをどんなウンダ―カマ―にしていこうかと想像すると、とてもワクワクしてくるものだ。さて、ぼくの「負の袋」はこれからどんな「もの」を語るやら…。