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方法への挑戦

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1812夜、ポール・ファイヤアーベントさんの『方法への挑戦』を読んで思い浮かんだことを書いています。



 諸君、ワシは科学者ではニャいから“anything goes”(なんでもあり)なのだニャ。そもそもワシ自体が、エニシンgoズの産物ニャ。エニシンgoズには、何かを思い出すときのリスペクトの気持ちが大事ニャ。思ひ出とリスペクト…むむう、香ばしいメザシならぬ目覚めの香りがするのぅ。


 石頭の科学も、そーゆうところにgoすれば、ワシのよーに穴ーキーな野良猫になるニャ。ワシは神話の世界を散歩する、の村まる吉大先生ニャ。


 _ ∧_∧ __

/  (・ω・) /チラ

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 なぜ科学は“anything goes”をもって散歩に出かけないのか。彼奴は「検証」や「実験」をもって進歩とかシンポジウムばっかり行くのだニャ。鼻歌ではなく「反証」を歌いながらそんなとこ行って何が楽しいニャ?


   ∧_∧

  (* -ω-) ふふんふ~ん♪

  ⊂   つ


 なんでもカール・ポパーなる者が、天下一「反証」会のチャンピオンが科学の妥当王だということにしたニャ。打倒ならぬ妥当なのでカッコイイのかよぅ分からんが、「反証主義」なる流派が生まれたのはたしかニャ。

 「反証主義」が科学理論の王道になったので、科学と非科学の境界が出来て、神話的想像力はつまはじきニャ。さみしいニャ~。


   ∧_∧

  (*   )

   (__の) イジイジイジ…


 しばらくすると今度はトマス・クーンなる者が、大半の科学はこの勝ち残り型の科学理論のパラダイムを通して確立したのだと言い出し、みんな科学はそういうパラダイムに向かってパラダイム・シフトするのだと考えた。学校の教科書はこっちが好きらしいニャ。ワシは嫌いニャ。

 はたしてホントにそっちだけが正統科学だといえるのか。そんな舗装された道路から道草の草の、雨降った時の土の、その他いろいろの美味しい香りがするか。このまる吉先生は、そんなことしっぽの毛ほども思わんニャ。


                \  ∧_∧ 

ファイヤーでべベんと魚を焼くニャ  ヽ(・ω・ *)

                /


 今夜のお話は『方法への挑戦』なので、ぼくもちょっとした挑戦をしよう…ということで、穴ーキー(アナーキー?)な猫を召喚してみた。千夜千冊本編の主役はファイヤアーベント。名前だけ聞いたことがあるけれど、こんなおじさんだったのかという驚きのある人物だ。セイゴオ先生はファイヤーベントは好戦的哲学者だが、異端者やアナーキストではないと評している。


 ファイヤーベントは知識とは理想的な1つの真理に近づくための物ではなく、むしろ両立できない認識が増え続けて行く大洋のようなものなのだと言った。たしかに今ちょうど世の中で、同じ反ワクチンでも「ワクチンにmRNAが入っていて、それによって接種者は遺伝子組み換えされる」という考えと、ぼくのように「ワクチンにはグラフェンが入っており、5Gに反応して血栓などをつくる」と考え人で、それぞれ知識が増大している。


『方法への挑戦』は既存の科学論の解体に切り込んだ宣戦布告のコラージュなのだそうだ。一方今の科学は実験ばかり“anything goes”どころか殺したい放題ではないかと思う。だからぼくはアナーキストではないが、軍産複合体の解体に斬り込みたいものである。なかなか14離の仲間のCさんのように「敵を叩く必要はない」という境地にまで達せない。


 若いうちに相対性理論(重力時空論)と量子力学の一番おもしろい時期を過ごしたファイヤーベントは、音楽にめざめて声楽レッスンをしたりもしたらしい。戦争に連れていかれて歩行障害・性障害を負う。かなり大きな負だ。戦後はオペラをしたり、大学で歴史学と社会学と物理学に向かううちに「科学の背後」に興味をもった。


 1948年にカール・ポパーと出会った。ポパーもかなり劇的な人生を送っているが、その思想は科学理論の普遍性を獲得するための方法として完成した。ファイヤーベントは最初はポパーの考え方に惹かれたが、やがてもっと“anything goes”したくなった。

 もう一人影響を受けたのがイムレ・ラカトシュだ。アナロジカル・シンキングに跳ぶ前に、51歳の若さで亡くなったラカトシュはファイヤーベントの盟友でもあった。


 ファイヤアーベントはバークレー時代に友人を経由して「東洋思想」の風を受けたことで、実証主義の「意味の滲み上がり」仮説に対して、意味はむしろ「滲み下がる」のだと捉えれるようになった。セイゴオ先生も、意味とは見え方が変化してきたときに舞い降りるように滲み下がってくるものなのだと仰っている。

 先生とファイヤアーベントに共通するアナーキーな感覚は、「知の読み方」にあるようだ。アナーキーそのものではなく、方法をアナーキーに掴まえるということである。マイケル・ポランニーの「方法知」に通じる感覚だ。


 今月の14離の会議はぼくが807夜『都鄙問答』について喋った。石門心学の関連書籍を2冊ほど図書館で借りて、読んでは要約することを繰り返した。石門心学と編集術や編集学校の似たところを見つけるうちに、なんだかハマってしまった。こちらは「興」を起こすというより、一つひとつ掘り下げながら、じわじわと意味が滲み下がる感じだろうか。


 今回はちゃんとスライドを作った。守の用法に沿ってつくったらAさんに気づいてもらえた。守の型を使って読み解き、歴史的背景と照らし合わせながら、最後は飢饉と現代の食糧危機をインタースコアさせてみた。練習の甲斐もあり、緊張したけどなんとか無事に発表できた。

 15離の退院式の後だったせいか、発表後の交し合いも盛り上がり充実した。仕事で海外行くというBさんから、肌身で感じた外国の様子を聞けたのも参考になったし、年輩のCさんに、火中の自分の創を、離後むしろ突破口にして埒をあけていった経験談を語ってもらえたのもよかった。人性と社会を重ねて「(一皮)剥ける/剥けない・(埒が)あく/あかない」ことに関して、様々な事例を持ち寄りながら、どうしたらいいかみんなでアタマを悩ませているとあっと言う間に24:00をまわっていた。


 最近は元々博学なOさんが裏の事情に関しても語るようになって、ぼくのほうがまだ行政があてになるようなフリをしてしまった。本当は、アメリカと表立って闘っているブラジルだって選挙が不正に操作されているというのに、アメリカに追従する日本の選挙の票が操作されていないはずがないと思う。だから日本のマスコミは愚民政策だけでなく、選挙が最初から茶番であることがバレないように「日本が破滅に向かっているのは、国民が政治や選挙に無関心なせいだ」と見せかける役割を担っているのではないだろうか。気象操作の影響を気候変動のせいにする、世界中でマスクをしているのがほぼ日本人だけだということがバレないようにするなど、ありとあらゆる情報と印象の操作をすることがマスコミの仕事なのだろうとぼくは考えている。


 会議でもこんな話になった。「アメリカは日本を一億総チャットbotにしたいと考えているのだろう。」「能力は高くても一面的にしか見ることのできない人が多い。」「上の恵まれた環境にいる人が下の現状を分かっていない。」「子育てが無理ゲーになっている。」「特にシングル家庭。」「子どもの運動能力の低下。勉強どころではない。」「少食化し弱体化している。」

 世の中の人々もみんな自分なりに考えてはいるけど具体的にどうすればいいのか分からないのではないだろうか。ぼくらの会議でも、どこの組織も変化を起こすための音頭をとれる人がいないという話になった。人によってやるべきことは違うはずだ。ぼくの場合は畑をしている友達の店を手伝ったり、マンガを描いたり、3日連続して見た夢の通りにする。


 『都鄙問答』を書いた石田梅岩は、学問とは道徳的かつ自在な判断をするための方法だと考えた。今夜の本編の最後は、ぼくたちはファイヤアーベントの闘いから学ぶべきだということが語られている。抵抗せよ。世の中が理性に勝たせようとする傾向をもつこと、科学と哲学が真理を求めたがること、アカデミズムが思考に変化や矛盾が生じることを嫌うこと、多くの社会的な最終判断が権威によってもたらされてきたことに対して。


冬焚火闇夜へ朱き炎行け





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